「学ぶ」には「あそぶ」と、
「遊ぶ」には「まなぶ」と、ルビを振りたい。(糸井重里)
ほんとうの「労い」って、
「いつもありがとう」とか「助かってます」といった言葉を、
口先で伝えることだけではない。いうだけなら誰でもできる。
ほんとうの「労い」って、
「いつもありがとう」の言葉の後に、例えば、
「このおこずかいで、好きなものを食べて、楽しんできてください」とか
「今日一日は仕事のことは一切考えず、ゆっくり過ごしてください」とか
そんな「ご褒美」をあたえること。なのではないか。
毎日しんどい業務やら家事をたんたんと繰り返していて、
日々の営みがうまくいっているかどうかすらわからず、
考える間もなく頑張っている人に、
おつかれさまと声をかけて、ボーナスを与える。
というのが、シン労い。なのだと思うのです。
組織で言えば、日々頑張る部下に対して、部長課長が宴会を開いて
「毎日お疲れ!今日はおれのおごりだ」と太っ腹におごったりして
部下のストレスを解放する。
それで、部下の方は「気にかけてくれてありがとうございます!
明日からも頑張ります」と器を空にして翌日からがんばれるのである。
家庭で言えば、
「毎日家事育児お疲れさま、今日一日は家のことを忘れて羽を伸ばしてきてね」
というのがそれにあたる。
日々の暮らしの中で、労いってのはとても大切だ。
それがないと、日々の営みが立ち行かなくなる。それほどのものです。
お金や時間、それに同等のご褒美を贈って、
日々頑張っている人を励ますこと。
それこそが、「シン労い」なのだと思う。
労う側は、いつも場を見て、実務者を労う準備をしておくこと。
労われる側は、期待せず待ち、届いた労いを感謝して受け取ること。
そんなことで、世界って健康に回っていくのだと思う。
上っ面の言葉には出せない、ご褒美こそが、ほんとうの労いです。□
道尾秀介の「雷神」を買ってしまった。
また、本を買ってしまった。
読みたい本は、家にどっさりと積ん読されているというのに。
それらを読み切るにも、相当な時間がかかるだろう。
新しい本を買うのならば、それらを読み終わった頃でもいいはずだった。
それでも、買ってしまう。
本を買うということは、もちろん、「読みたいから買う」のだが、
その前段に、「買いたいから買う」というところがあるのかもしれない。
買ってすぐ読むわけじゃない。
どうせ積ん読になるのだ。
だけど、買うという行為をしたいのである。
買って、その新刊を抱きしめて紙のにおいをかぎたい。
それによって、現在自分の中にたまったストレスやらは、
確実にリセットされるのである。
読むためだけに本を買うのならば、確かに充分な積ん読があるのだから、
買う必要はない。
だが、買いたいのだ。買うという行為で、ストレスの中和をしている。
それがないと死んでしまうのかもしれない。
買うために買う。そういう買い方があり、自分にとっては、それも本がもたらしてくれる恩恵のひとつであるということを、最近強く感じている。
積ん読万歳。である。□
F130号2枚などとても描けそうもない。
この半年の自分はHPを削られ、
完全に弱り切っていて、
やる前からギブアップしていた。
が、1時間。
小さな時間であれ、どろんこになった。
キャンバスに絵の具が乗り始めた。
刹那、
「始まった。」と思った。
長い冬眠から目覚めたような気がする。
あるいは、長い間運用されていなかった灯台に灯がともされたような気がする。
絵から離れるほど、気持ちは弱まり、もうとても描くことなどできないと思い込んでいたが、灯が入ってみると、
あ、そうだった。自分は、描く人だったんだ。と思い出す。
じゃあ、やれるな。と思い出す。
やれる。
この絵はきっと、完成するだろう。
始まったんだ。世の中がどうであれ。家の中がどうであれ。
これが自分の「呼吸」なのだ。□
引っ越しの時に処分するか紛失してしまったモノ。
1.バガボンドの単行本
2.ウクレレ
3.Infobar2
処分した記憶はないものもあるが、
実際に見当たらないので、
やっぱり処分してしまったのだろう。
引っ越しの最後の追い込みの時は、
もう、なんでも捨てたれ!スイッチが入り、
もったいないフィルタがかなり緩くなる。
その勢いでおそらく処分してしまったのだろう。
処分したものの大半は、振り返ることもなく、
新しい生活が始まって、処分してよかったとなるのだが、
こうして、捨てなければよかったというものが出てくると、
やっぱり、モノは捨てられないなあと思ってしまう。
この4点は、心の底から後悔している。□