本気になると、娯楽を忘れる。
本気の本気になると、食事を忘れる。
本気の本気の本気になると、生死を忘れる。
もしかしたら僕はもう死んでいるのかもしれない。□
本気になると、娯楽を忘れる。
本気の本気になると、食事を忘れる。
本気の本気の本気になると、生死を忘れる。
もしかしたら僕はもう死んでいるのかもしれない。□
もうこりごりです。
そんなことを昨年の今頃叫んでいたようだが、
1年たって今なおまた同じことを叫んでいる。
なぜもっと早く計画しなかった。
なぜもっと早く行動しなかった。
あのとき、このとき、時間は溢れていた。
それをまた明日また明日と先延ばしにし
目先の誘惑にひきずられ浪費してきた。
そうして最後こりごりだ!なんて叫ぶのだ。
自業自得じゃねえか、この大馬鹿野郎めが。
だがしかし。冷静に振り返ってみると、
実は僕はこんな状況になりたかったのかもしれない。
「治らない」のではなく「治さない」のです。
僕は、
「本当にどうしようもない状況でしか発動しえない本気」
に依存して仕事をしているような気がする。
時間、師匠の叱咤、他のアーチストの作品群。
自分を監視する多くのものたちからの警鐘が
ある一定量を超えたとき初めて本気が発動する。
本気が発動するまでは頭で自分を追い詰めていても
どうしても気持ちは無意識のうちにゆるんでしまい
それに気付けない無駄な時間をすごしている。
だから僕は本当にこりごりしなくなったらもうおしまいな気がする。
僕はこりごりの中でしか本気になれない奴だったのです。
しんどいけど。やめたいけど。開き直りかもしれないけれど。
僕を追い詰め本気にさせてくれる多くの奇跡的な力に感謝しつつ.....。
また筆を握る。□
先日立ち寄った展覧会で作家の先輩が、
自宅のマンションの一室で火事があり
ひどいめにあった。と話していた。
マンションの住人は全員外に追い出され、
鎮火するまで外で待たされていたという。
いまふとその話を思い出したのだが、
実は、この話にこれ以上の内容は無い。
不謹慎かもしれないが、この話を聞いた時、
「すべっている。」と感じた。
火事など滅多に体験するものではない。
火事に遭遇した。なんて聞いたら、
こちとら、一体どうなってしまったのだ!?
と前のめりになって耳を傾けるでしょう?
だけどその先が、誰でも想像できるような話だった
としたら「ふーん...」で終わってしまうのである。
人を驚かせたり、喜ばせたりするためには、
聞き手の想像を絶するような展開や結論がないと、
ただの世間話ととられ、終わってしまうのである。
実は、僕が描く絵も見る人にとって、
いつも「ふーん....」で終わってしまっている(と思っている)。
これもまた、鑑賞者の誰もが想像できるような作品だったから。
なのだと思う。
人は日日多くのものを見て、感じて、経験して生きている。
だから作家は、彼らの人生経験を上回る、
新しいエクスペリエンスを創発していかなければならない。
また春が来る。
「今年こそすべらない作品を!」と決意し、また絵筆を握る。□
人生初のピアノリサイタル。
人生初のフェニックスホール。
400人程度収容のとても可愛いホールである。
北陸の絵画の先生の奥方がピアノにおいて、
大変素晴らしい業績を持っておられるということで
ご縁があり、本日拝聴させていただく機会を戴いた。
個展制作に関西二紀展制作が重なり、
かつて経験したことの無い「あわわわわ~」みたいな
見苦しい日日が展開される今日、ピアノリサイタルは開演された。
正直1秒たりともアトリエを離れてはならない、という
事態ではあったのだが、むしろ離れたいという気持ちもあった。
アトリエに長くこもることが必ずしも制作を前進させるものではない。
今の僕はきっと小さなパニックに陥っていて、
アトリエに深く張っていたいびつに深く絡み付いた根っこを
何かの力によって引き抜いて欲しいと願っていたのだった。
こんなときだからこそ、あえて外に出て道端に咲く美しいスミレを
じっと眺めるくらいでなくてはならないのだと思う。
フォーレ、モールツァルト、ベートーヴェン、そしてラヴェッルと続く
美しく、健気で、それでいて凛々しくもあるピアノの旋律が
小さなパニックに陥っていた自分をリセットしてくれたのであった。
これだけの素敵な演奏会をおこすためにどれだけの大変な準備が
つまれたことだろう........。
作品を発表するということの苦しみをお察しする。そして感謝する。
今度は僕が個展でいただいたものをおかえししなくてはならない。□
琵琶の長寿 純米吟醸
(滋賀・今津/池本酒造/評価:5点)
年末。恒例のアトリエ大掃除を終えた後、
最後の最後の忘年会に、近江今津を訪れる。
この行事が始まってから、もう5年になる。
アトリエの1年。制作の1年。業務の1年。
この1年の全てを近江今津の小さな民宿で
振り返りながら鴨鍋と日本酒をいただく。
全てのしがらみが消えるわずかな光のような時間。
真・忘年会である。
近江今津の町を歩くと見えてくる小さな酒造。
池本酒造の琵琶の長寿。
1年を振り返る酒である。
小さな酒造でありながらはるばる遠くから訪れ、
店の前で記念撮影する人も珍しくない。
ファンは多い。知る人ぞ知る名酒なのである。
辛さとはちょっと違う苦味が独特である。
琵琶の長寿をいただくときはいつも、早く年末が
来ないかなぁ。などと考えてしまう。□
「君はあの展覧会を見たか。
本当に素晴らしかったぞ。
絶対みておくべきだ!!」
僕はその展覧会を知らなかった。
知っていたとしても行くつもりはなかった。
そういう展覧会にはたとえ誰かが絶賛したとしても
決して行かないことにしている。
感動は個々の人間の「体調」や「状態」にすごく依存している。
彼は今その展覧会をすごく求めており、
また吸収できる状態にあった。だから素晴らしかったのである。
だが僕はその逆である。
展覧会のことすら知らないほどの無関心。
更にそれを吸収できる状態でもない。
そういうものは見ないに限る。
これまで他人からの強い推しを受けて見た展覧会で
よかったものは一つもなかった。
結局、見たいものは自分で決めるのが最良なのだと思う。
そしてそれがいくら素晴らしかったとしても、
他人にとっては全く響かないものであったりするのである。□