夢十夜Season2 第一夜

こんな夢をみた。
南天満で一人居酒屋に入り豊かな時間を過ごした。
22時ごろに店を出て職場へ向かった。
職場は既に真っ暗だったが、奥に暗室のような赤い光が
見えたので近づいてみると先輩が一人パソコンを組み立てている。
いつもは優しい先輩なのになんだか気が張っていて、
「デザインの発注はスケジュール通りに進んでいるか」と言った。
「もう間に合わないぞ」と。
ほろ酔いだった自分は一瞬で血の気が引いた気がした。
廊下に置いてある布団を奥にしまわなくてはならない。
姿を消した先輩を探すと、会議室で深夜の打ち合わせが始まっている。
恐る恐る声をかけ布団をしまいたい旨を伝えると、
機嫌悪そうに黙って奥の段ボールをどかした。
先輩のそんな姿を見たことは無い。
そこへ申し訳ない気持ちで布団をしまい、逃げるように職場を後にする。
職場の庭では社内の劇団が青空芝居をしていて、役者に絡まれてしまう。□

ウソエイトオーオー

「すっごく面白かった!」

そう友人が力説する映画を観に行くと、
「それほどでもなかった」と感じることが多い。
逆に「ちっとも面白くなかった」と言われる作品を観たときは
「すごく面白かったじゃないか」となったりする。

先日観たスターウォーズシリーズの新作「ローグワン」。
事前に「あれはナシでしょう」と知人から酷評をされていたのだが、
実際に観てみると、
スターウォーズ作品にも引けをとらない傑作だ!と感激したのでした。

こういった現象は映画に限らず、また事象にも限らず起るようです。

おそらく人には、
他人が伝えたポジティブな情報には、過度な期待をして裏切られる。
他人が伝えたネガティブな情報には、過度な警戒をして裏切られる。
という法則があるのではないか。

今、NintendoSWITCHで最新作のゼルダの伝説をやっています。

「砂漠にでてくる雷のボスがとてつもなく強い。ラスボスより強い」

といったことを3人の別の知人から何度も強く言われていたので、
さぞ強いボスなのだろう、と凄く警戒して臨んだのであるが。
結果「それほど強くもなかった」というのが自分の印象なのでした。
確かに動きも早く、変幻自在な攻撃をかけてくる強敵ではあったけれど、
これまで闘った他のボスと大差ないように思ったし、
4~5回の挑戦で撃破できたのだから実際そうだったのだと思う。
ここにも上記の法則が当てはまってしまうのでした。

「ものすごく強い」という過度な警戒を3名から植え付けられた自分は、
これまでのゲーム人生で最強だったボスを超える更なる強敵を想像していました。
果たしてそんなボスなどいるのか。
そんなの1か月かけても倒せないのではないか。
だけど、ふたを開いてみれば「それほどでもなかった」という結論になりました。

ちなみに、これまでの最強の敵は、PS3デモンズソウル」のラスボスです。
このボスはどうしようもなく強かった。
1週間位、装備を変え、持ち物を変え臨んだが全く倒せる気配がしない。
最後の最後には、ネットで見つけた、
どうしようもない卑怯な卑怯な裏ワザ(ボスが攻撃してこなくなる)を使い、
30分ほどかけ体力を削って倒したのであった。当然達成感はゼロである。
が、今なおもう一度トライしようとは思えないほどの絶望的な強さでした。
これからの人生でも、あれほど強く悪質なボスは出てこないだろうと確信している。
(と書くと今度は「それほどでもない」という人が出てきそうだけど)

第三者に感想を伝えるときは「何も言わない」のが吉なのかもしれない。
お互いが同じ情報をもったときに、初めて意見を交換するぐらいが良いのではないか。
あるいはどうしても言いたい!と思ったときには
あえて真逆のことを伝えてあげたら良いのではないか。
例えば、ゼルダの伝説ならば
「ちっとも面白くない!」と伝えてあげるといいかもしれない。□

ピリオドの向こうへ

「僕は自分を誰とも比較しない。
 最後はいつも自己評価だ。
 自分の評価が100点ならば、
 他の誰がどう言おうと僕は100点なのだ。」


先輩の言葉である。
先日先輩と飲む機会があり、この言葉をもう一度確認した。
本当に自己採点が100点であれば満足なのでしょうか。
たとえそうであっても、他の誰もがその仕事を認めてくれなかったら
残念ではないでしょうか。と。
けれど、それでも先輩は「自分が100点ならそれでいい」と答えた。

僕はその言葉をどうも信じられなかった。
たとえ自己評価が満点であっても、世界の誰もがその仕事を
評価してくれなかった時、
それでも「満点だ」などと言っていられるのだろうか。
もちろん、自分の仕事に自信をもつことは大切だけれど、
仕事は世界の誰かのためになったり、誰かからお褒めの言葉を
頂くことができたとき、初めて満点となり、世界とつながることが
できるのではないか。
と思うのです。
自分だけ100点といいながら誰も観てくれていないというのは
寂しくはありませんか。
そう思っていました。


........が。


このたびの個展で発表したF50号の「追憶の庭」。
この作品を完成させた瞬間、
僕は自己評価100点を感じてしまったのです。
言葉で言い表せない達成感でした。
この1枚を描くためにこれまでの15年があったといっても過言でないほどの。
もはや、誰も見てくれなくても、誰も評価してくれなくてもいい。
それでもこの作品は自分の一つの到達点だ。と確信をもってしまったのでした。
先輩のいう自己採点100点の瞬間が確かに存在することを知ったのでした。

きっと先輩は日日そういう気持ちで仕事に臨んでいるのでしょう。

もっといい仕事をしなくてはいけません。

僕はもっともっと先へ行ける。ピリオドの向こうへ行ける。□

今日の一冊

「職業としての小説家」 村上春樹著 スイッチパブリッシング

人類を分類する一つの指標として、
村上春樹が好きか、嫌いか」があってもいい。
とすら思ってしまう。
すっかりいかれてしまったよ、僕....。□ 

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ナラクーダ

個展が無事終わった。
が、刹那すぐ奈落へ。
日日続いたあの忙殺。残された小さな時間をかき集め、
なんとか作品をつむぎあげていく冷や汗が溢れる毎日。
1秒1秒が緊張感で満たされたスリルと狂気の毎日。
だがあの充実も個展が終わった刹那、もう奈落である。
1日中、ゼルダの伝説で遊んでしまった....。
奈落である。
いったいこの体のどこにあれだけの狂気が潜んで
いたのか?と疑ってしまうほどに、奈落である。
人間とは、というより増田力也はこれほどまでに
〆切というものに依存して生きている人間なのであった。
それをいつもこの時期に思い出す。
そしてこの奈落への滑落を今留めておかないと、
もう這い上がることすらできないところまで落ちて
行ってしまう。それも身をもって知り尽くしている。
ゼルダはほどほどに。
そしてまた次の作品へと進んでいこう。
これが10年もかかってしまった自分への学びである。□

美術の見方

(1)見て感じたことを言葉にして表してみる。
  こわいのか。
  かなしいのか。
  キモチワルイのか。
  おかしいのか。
  かわいいのか。
  いたいのか。
  くさいのか。
  あたたかいのか。
  つめたいのか。
  はたまた、それらのはざまか。
  ともあれ、素直な言葉にして表してみる。

(2)次に、作家になったつもりになって
   自分の頭の中でその作品を作ってみる。
   その過程を空想してみる。
  頭の中で、
  キャンバスを作って、
  絵具を混ぜて、
  太い筆をもって、
  ざくざくと描いてみる。
  次に細い筆に持ち替えて
  細かいところを書き上げて完成させてみる。
  作家がたどった過程を頭の中で辿ってみる。

(3)自分ならこうは描かない。
   自分ならこう描く!という作家との差異を咀嚼する。

(4)頭の中で作った作品が(1)の感覚を
  生み出しているという事実をつなげてみる。 □