弱音を吐く。

個展制作と業務の掛け持ちってのは、
なかなかしんどくて。
ほんとうにしんどくて。
先日、アトリエの先生と飲んだ時にちょっと、こぼしたんです。

今後、個展の運用を2年に1回に変えて、個展の年とコンクール出品の年を交互に運用したいとか何とか。
先生はとたんに顔を曇らせた(ような気がする)。
やれやれという顔をした(ような気がする)。

お前は、自分で決めたマニフェストを、自分の都合で勝手に変えやがるのか(どこかの政治家と同じじゃないか)。
桜が春になって、咲くのがしんどいから、今後は2年に1回だけ咲かせてください。なんていうのか?

ほとんど自分の言葉に置き換えてますが、まあそんな感じのことを言われたように思います。
ささりましたね。
個展を自分に課すことは、自分を逃げないようにするためです。
毎日逃げ出したいと思います。
でも実際に逃げちゃったらきっともう戻ってこられないのだと思う。
からしがみついているのでしょう。
確かに今後時間が流れ、体調や環境も変わって、継続が難しくなっていく。ということもあるでしょう。けれど、それでも咲く。を続けたいと思います。
東日本大震災津波に流された桜が、それでも咲く。という姿を見せつけてきたときに、多くの人は驚き、感動しました。そういう姿に僕もなれたらと思います。

桜ってのは言葉を話さないから、だからこそ、いっそう綺麗なんだろうなあ。饒舌もほどほどにしたいものです。□

ファンタジー

3月にアカデミー賞が発表されたけど、

何故、アカデミー作品賞は「デトロイト」ではなくて「シェイプオブウォーター」だったのだろう。

共に人種というものの問題を扱ったという点では大きな差はないと感じている。

人種問題を克明に視聴者に伝える力の点では「デトロイト」の方が強かったかもしれない。

たぶん、作品賞を受賞するには「ファンタジー」でなくてはいけないのかもしれない。

社会的な事件、政治的な問題のキーワードが流行語大賞を受賞できず、お笑い芸人のきめ台詞が大賞を受賞するのと同じように。

いい作品というものは、エッセンスとして社会的・政治的な問題や時代をはらみつつも、ほっとさせたり、くすりと笑わせたりする寓話のようなオブラートで包まれているものがいいのかもしれない。

絵画にとっての「笑い」ってなんだろう。□

免疫と期待

映画「デトロイト」がすごいらしい。

あまり褒めないアトリエの先生が珍しく絶賛していたから「これは観ねばなるまい」と思い、観てまいりました。
中東戦争の地雷処理をテーマにした「ハート・ロッカー」、ビンラディン暗殺計画をテーマにした「ゼロ・ダーク・サーティ」など次々と話題作を発表するキャスリン・ビグロー監督の最新作です。
1960年代、デトロイトで勃発したアメリカ史上最悪の黒人暴動の一夜に起こった衝撃的な事件を生々しく描いた作品です。
確かにすごかった。2時間30分が一瞬のような迫力でした。

でも個人的には、もっとすごかった作品があります。
アメリカ史上最悪の(こればかりだな)凶悪連続殺人犯ジェームズ・ホワイティ・バルジャーをジョニー・デップが演じきった「ブラック・スキャンダル」の方がすごかったと思うのです。
あるいはレオナルド・ディカプリオが悲願のアカデミー男優賞を受賞した「レヴェナント」もすごかったと思うのです。

さて。ここまで書いて思ったんだけど「~より~の方がすごい」って本当だろうか。
自分にとってすごいものを第三者に伝えるために、二つを比較して、AよりBがすごい。という言い方をすることがあるけれど、それは自分のもつ「免疫」を基準にした発言なんだよね。

僕は「ブラック・スキャンダル」を観て、アメリカの歴史に基づいた衝撃的事件に対する免疫が作られた。だから「デトロイト」への驚きは免疫の力でやや小さく抑えられたと思うのです。
逆に「デトロイト」で免疫を作ったアトリエの先生に「ブラック・スキャンダル」を観てもらったとしても、「デトロイト」の方がすごかったということになるかと思うのです。

何を最初に観るか。ですごいが決まっていくとしたら、第三者にはそのすごさってそのまま伝わらないのだね。「すごさ」を相手に伝えるってむずかしい。

映画を第三者に薦めるとき「すごかった」という伝え方以外にいい言葉が無いかとずっと探しています。
「すごい」という言葉で伝えると、相手は大きな期待をもってしまうから、だいたい「それほどか?」という結果になったりします。
自分がすごいと感じて誰かにも観てほしい、と思った映画をどう伝えたらいいのだろう。
ずっと悩んでいたけど、これからの僕はただ「観ました」ということだけにしようと思っています。
その他、それほどでもなかったものは話題にしない。自分が「観た」と発言することが「すごかった」を伝えるようにしたいと思っている。もう少し言葉を足したいなという衝動があったとしたら「おすすめします」くらいは補足してもいいかもしれない。
ということで、僕が今後「観ました」といったときは「すごかったのだな」と察して素直に映画館に向かってください。www

その人にとっての免疫と期待のバランスというものが「すごかった、よかった」と感じる大きな要因になっているのだね。□

 

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夜型

僕は、夜型です。

夜になると目が爛々と輝き、いっそう仕事に夜に没頭してしまう。
だからおのずと夜更かしのような状態になってしまう。

でも、朝型の人もいるし、夜型の人もいる。

これは体質なんだと思います。どちらが正解と言うわけでもないと思います。

だけどさ、世間一般って朝型を正義、夜型を悪。とみなす傾向が強いように思いませんか。

朝の時間を有効に活かせる人間が人生で勝利する。というイメージが自然と根付いています。

逆に朝寝ている人間は、折角の時間を無駄にしている、と言われる。
夜に仕事をしたり、夜を有意義に生きている人間がいても、なかなか受け入れられず、夜更かししていたら朝になっちゃった。みたいなだらけ学生と同じとみなされて、悪に丸められてしまう。

動物にだって夜行性はある。人間にだって夜型というものがある。それでいいじゃないか。

やむをえずか、その個体の体質か。夜を充実させている生き物もいるのである。

働き方改革以前に、意識改革をすべきではないか。朝も夜もどちらも甲乙つけず素晴らしいと。□

免許更新

先日、自動車免許の更新に出かけた。

手元に届いた更新のお知らせには、古い免許証と写真を持ってこいと書いてあった。
5年前の免許更新では、写真を持っていかなくても更新できた、と記憶していて、今回も用意せずに行った。
免許試験場に着き、順路に従って進んでいくと、視力検査があったのだが、入口に必要なものが掲示されていて、そのリストに「写真」が含まれている。

ふと近くを見渡すと、順路を外れたところに写真撮影機があり、ちょっとした列が出来ていた。
やはり5年前は写した記憶が無い。と思いながらも、ルールが変わったのかもしれないと思って写真撮影機の列に並んだのだった。20分ほどで撮影を終えた。値段は¥800。
高いな、と思いながら先へ進んでいったら、視力検査コーナーでは写真など求められもしなかったのです。しかも、そのまま順路を進んでいくと、最後にちゃんと専用の写真を撮影してくれる場所があったではないか!!
全ての更新者の顔写真をその場で撮ってくれて、免許に焼きこんでくれる。公式であり無料である。写真撮影機で自分の写真を撮影する必要など全く無かったのです。そうだ、5年前もこうしたのだった。今思い出した。

免許は無事に更新されました。

だけど使わなかった写真に800円も払ってしまったことが残念でした。
もしかしたら僕と同じようにあの写真撮影機で不要な写真を買わされてしまっている人がまだまだいるのではないだろうか......!?。

別に人助けをしたかった、というわけではないのだけど、このままにしておいたら、これからずっと僕と同じような人が、わけもわからず使用もしない800円の写真をあの撮影機で買わされ続けるのではないか.......?!
もしそうならば、この仕組みを変えなくてはいけないと思いました。
ほとんどの人が必要もない写真を買わされるんですよ?
せめて、必要もない写真を必要。と書いている、あの掲示内容を変更する必要があるのではないか。

交通安全の講習会を終え、免許を手にした人々がどんどん帰路につくなかで、僕はもう一度、免許更新所に入って行き、あの写真撮影機の前まで行ってみた。
すると案の定、列が出来てる。中には本当に写真が必要な人もいるのかもしれない。だけど僕はたぶん十中八九の人は不要な写真を買わされていると感じた。
差し出がましいので並んでいる人たちに注意をするのはやめて、入口そばにいる窓口のおっちゃんにその旨を伝えてみた(おっちゃんは寺島進に似ていてちょっとこわかった)。

視力検査所の掲示に「写真が必要」と書いてあるから、写真を買わされてしまった、と。せめて掲示には誤解が無いようにしておくべきだ。と伝えた。

するとおっちゃんはこっちこい。と言いました。
つれていかれたのは例の写真撮影機の前で「ここを見ろ」と。
見ると、小さい字で「XXXXの人は写真は不要です」みたいなことが描かれている。
免責はあったのです。はずかしい自分.......。だけど気付かねーよな。
やはり視力検査入口にある「写真が必要」の記載を消してしまった方がいい。

おっちゃんは怖い顔をしていたけど、僕が800円で使いもしない写真を買ったと聞くと、そばにあった売店に入って行っておばちゃんに800円返してもらうよう話してくれたのでした。

改めて、10人中9人は写真は必要ない人です。なのに写真が必要と掲示するのはいかがなものか。どうしても買わされてしまう位置に写真撮影機を置くのはどうか。
状況をよくわからない人を捕まえてお金をすいあげようとしている悪しきシステムがはびこっている。これって、いかがなものか。


まあお金のことを相談したらすぐに返してくれるように動いてくれるところがせめてもの救いでしたが。掲示の内容を見直してもらえるまで話を進められなかったのは残念です。

最後に、もし免許更新にいくときは写真なんてなくていいから!
せめて無駄な買い物をしないように!!□

本流

個展してすごい。と言ってくれる方はいますが、

個展がよかった。と言ってくれる人は未だいない。

ここに問題の本質がある。

つまりただ愚直に続ける。ということと、
いい仕事をする。ということには大きな隔たりがあるということです。

僕の仕事はよくない。

一部のとびきり優しい人たちの情に助けられながら、ただやっているだけです。
世の中の望みや願いの本流に、未だつながっていない。

先日、今度個展をさせていただく画廊で開催される他の作家さんの個展の案内状をいただいた。
お会いしたこともない方である。作品をみるのもその案内状にある作品の写真が初めてだった。
だけど、見た瞬間、是非見に行きたいと思った。
作家とも直接会ってお話ししてみたいと思った。
作品が強い強い魅力を放っている。僕もこのような姿になりたい。これが正しい姿だと思う。

多大なコストをかけて折角やるのです。であれば、いい仕事にしないと。価値にしないと意味が無い。

これからも世界の本流につながる道をずっと探していくことになるのだろう。□

視線

楽しみにしてますっ。

キラキラした目で後輩が個展の案内状を受け取る。
そんな視線を受けるたびに、ぼくはおびえる。
絵の先生がたの視線は、なんだかんだで同じ描く人の視線だからむしろ怖くも無い。
描かない人が、なにかサービスのようなものを期待して見上げてくる視線が余程怖い。
知らない世界で何か新しいことをやっている、きっと楽しいはずだ。みたいな視線に応えられるほどのものをぼくは生み出せていない。
期待されるほどに困る。そしてそんな視線を受けるほどに、緊張は更に高まる。今更かっこうを付けて見せようとしても付け焼刃でしかなくて、見苦しいだけだろう。それでも、なんとかしなくては。という気持ちが高まる。
残す日は15日を切った。最後の最後まで悪あがきを続けることだろう。□