心の試練

NHK朝ドラ「半分、青い」がすごい。というか「痛い」。
痛すぎませんか、このドラマ?
ほんとうに朝のひとときに観るドラマなのだろうか、これ。

岐阜県出身の女の子・鈴愛が売れっ子の漫画家の秋風羽織先生に弟子入りして、プロの漫画家を目指す話です。
いろいろ苦しみながらも夢をつかんで大物になっていくのだろうと期待していました。さらに幼馴染の律君とは、やがては一緒になるのだろうと。


でも、全て、裏切られていきます。


まず秋風羽織先生の弟子のひとりの裕子が、プロデビューしたものの描けなくなってしまい、崩れ、漫画の世界を去っていく。
ならば、それを見送った鈴愛は、その想いをついで開花するのだろう。と思ってみていたら、彼女も描けなくなり、精神障害ぎりぎりかというところまでおいつめられ、そして、漫画家をやめる決断をするのです。
さらに、その苦しい時期に、幼馴染だった律は別の女性と結婚してしまうという事件まで重なったりする。ぼろぼろの現実的展開です。
タイトル「半分、青い」の意味はこういうことか、なんて深読みをし始めています。

今どきのドラマっていうのは、ここまで「非情な現実」を描くまでになっているのでしょうか。ふだんあまりテレビを見ないからだろうか、大きなショックを受けています。
混乱し、驚きつつも、鈴愛のむかう結末に目が離せないぼくなのです。

でも「裏切る」というのはものづくりにおいて、とても大切なファクターだと思っています。
作品が、見る人の想定範囲であれば、それは日常でしかなくて、すぐに飽きられてしまうからね。
ファンの目を捕まえておくためには、想定する方向とは逆へ逆へと、それでいて満足する結末に導いて行かないといけない。主人公・鈴愛は脚本家の北川悦吏子さんの自画像的な一面も持っているのかもしれない。


それでも、鈴愛が現実に裏切られていく苦しみや、限界の果ての決断は、痛すぎます。
ぼくも絵を描いていて、ちっともうまくいかない毎日を送っています。
そんな人間にとって「私は業界を去ります」というシーンは痛々しすぎて、ある意味、ホラー映画以上の恐怖を感じます。
ちょうど崖っぷちにいる人の中には、やっぱり駄目なんだと思い込んで、夢をあきらめる人すらでてくるかもしれない。
努力では越えられない現実のヒエラルキーがオブラートに包まれずに、むき出しているように感じてしまうのですよね。

まあだからこそ、人はこのドラマに目を奪われるのでしょうけど。□

 

地震に、大雨に、サッカーの惜敗に、非情なドラマ.....。
なんか痛いことばかりが続いているなぁ。これは心の試練なのかも知れないなぁ...。□

今日の語録

「もういいだろう。 
 何もない楡野に一つ提案だ。
 
 ・・・・・・・・・・・・。
 
 漫画を描け。
 
 このネームはくそだ。この前のやつもくそだ。

 そこでどうだ。いつものお前のやり方だ。

 ネームなしでいきなり描いてみたらどうだ?

 初めて漫画を描いたときのように?」

(秋風羽織、朝ドラ「半分、青い」78回)

構築するもの

人間と人間の関係って「構築」していくものだな。
ということを感じることがあります。

人それぞれがそれぞれの歩んできた人生や、
もちまえの人柄、その時々の肩書や状態を
持っていて、お互いにそれらを持ち寄って
組織の中、社会の中で絡みあっている。

ある人の発言が痛かったり、
ある人の行動が過激すぎたりすることがあると、
ときには対立が生じたりもするけれど、
社会・組織と言う枠組みの中でお互い生きていかなくてはならなくて、なんとか進んでいかなくてはいけない。

そのうちに、お互い、彼にはこの言葉は禁句だとか、
このやりかたはうまくいかない。という互いのルールを
を少しずつ体感して、吸収して、学んで、構築して、はじめはぎくしゃくしていた関係も、なんだかんだで最後になれば落ち着いた状態が出来上がっていたりする。

たぶん、一般的に言う夫婦喧嘩なども同じなのだろうなぁ。
互いが持っている、人生経験や美学や思想をぶつけ合って、同じ空間での共同生活を続けていくための、お互いのやり方、居場所を探し続けて「構築」していくのでしょう。
なんだかんだでそんな経験を重ねて来ると、
ぎくしゃくした空間があったとしても、まあしばらくしたら
有るべき姿に構築されるだろう。と思ってあまりあわてなく
なってきている。

まあすべてがそんなふうにうまく収まるわけではないけどね。
でも構築されていくんだね、世界は。
僕にはあまり力はないけれど、もしそんな渦中にいても、「構築」に
少しでもうまく携われたらいいなと思います。□

インディーゲーム

昨日ゲームボリュームの潮流について書いたけど、もう少しゲームのことを書いておきたい。

インディーゲーム。

長時間でクリアするゲームが楽しめない人向けに、それでいてコンシューマで遊びたい人向けに、1000円~2000円程度のお手ごろ価格で、クリア時間まで10時間~20時間程度のインディーゲームの人気が上がってきている。
インディーゲームは、PS3のころからでてきていたけど、種類が多すぎて、情報も無いからどれが面白いのかわからない。そもそも存在すら気づくことがない。だからこれまで買うこともほとんどなかった。書いたくても買いようがなかった。
今から思えば、名作がたくさん埋もれていたのでしょうね。でも僕にはそれを掘り出す時間も体力もなかった。

だけど、ここにきてまたNintendo!です。
NintendoSWITCHはゼルダやマリオというメジャータイトルのリリースでほとんどのファンに本体を行き届かせたあと、今度は、インディーゲームで次の大型タイトルまでの間をつなぐという仕組みを作りこんだのです。
毎日更新されるゲームニュースや、芸能人の挑戦動画を配信して、数々の埋もれた小さな名作たちをファンに紹介することで、買ってみようかな。という気づきを与えてくれる。
小さなインディーゲームが今、束になって集まって、メジャータイトルを食っちゃうくらいの勢いを持ち始めている。

ねらってやっているのか、偶然なのか。

つい、ちょっとだけやってみようかな。という気持ちにさせられてしまい、ぽろぽろと買い込んでしまうのです。

トレンドを生み出す、ファンをつかむうまさはやっぱりNintendoが最強だと思う。

今夜も30分くらいの小さな時間、インディーゲームを楽しんで眠りたい。□

 

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デンマークのPlaydead社の名作LIMBOもNintendoSWITCHに配信開始!

 

ゲームボリュームの潮流

NintendoSWITCHのスーパーマリオオデッセイをクリアした。

ゲームをエンディングまで遊べたのは久しぶりです。
すごかったです。面白かった。とても丁寧に作られている。
クライマックスからエンディングまでの演出はとくにすごくって、自分がまさに映画の主人公になったようで、驚嘆の声をあげてしまった。
エンディングまでだいたい30時間くらいだったろうか。
ゲームの完成度もさることながら、実は、今の僕にとっては、この「30時間程度でエンディングまで行けた達成感」がとてもとても、重要だったのです。

自惚れるつもりはないのだけど、現代のテレビゲームのあり方みたいなものは、僕らファミコン第一世代が作ったものだと思っています。
初めてテレビゲームに触れ、ブームを起こし、ブームの渦中に巻き込まれた当時の小学生たちの反響が、ゲームメーカーにコールバックして、今のゲームの骨格がかたち作られたと思うのです。
マリオブラザーズからスーパーマリオ、そしてドラクエへ......。ゲームのボリュームも、当時ちびっ子だった僕らの年齢に合わせて、クリア可能な範囲のボリュームになっていったと思っています。
そして僕らが大学生、社会人になるころ、時間的にも体力的にも最高潮だったころに、クリアまで60時間とか100時間いうスタンダードが確立されたと記憶しています。
だけど今、その僕らも歳を重ねて時間が取れなくなったり、体力も衰えたり、100時間を超えるような規模のゲームは、とてもクリアできない年頃になってしまった。
視力を壊す子供が続出するという社会現象の渦中にいた僕らが、昔ほどゲームができなくなっている。
もちろん、今の若い世代に向けたボリューム満点のゲームは、今なお前線を走っているけれど、当時の僕らを見てきたメーカーのまなざしというか、情けというか、そんなものが働いて、今のゲームのボリュームの見直しが入り始めているような気がするのです。
スーパーマリオオデッセイの30時間でエンディングというゲームボリュームは、僕らファミコン第一世代に対する、情けではないだろうか。

Nintendoがすごいのは、クリアとやり込みのボリュームの切り分けを絶妙に設定したことです。
30時間程度でクリアするという達成感を味わわせつつ、もっとやりたい人には、隠しエリアや、やり込み要素をクリア後に切り離し、100時間くらいのやりこみ要素として盛り込んでいる。未練の無い人は、30時間で卒業できるように作りこんでいる。本当にすごくって、ありがたいことです。

コンシューマゲームのあり方も、ますます進歩しているように感じます。

やっぱり僕ら第一世代はファミコンを卒業できない。

未だの方、是非仕事が終わった後のひと時に、マリオオデッセイをどうぞ。
都市のステージは本当に感激しました。□

命がけ

一夜明けてサッカー!

日本中は昨日の早朝に行われたサッカー日本代表VSベルギー代表の試合のことでもちきりである。

今回もぼくはこの話題の渦中にいる。
残念で残酷な結果ではあったけれど、この瞬間を多くの人と共有しているということを嬉しく感じます。
ことばでは表せない、複雑な色と重みをもった塊のようなものが、どすんと頭の中に落ちてきて、いまなお転がり続けている感じです。

もともと勝てるとは思っていませんでした。
ポーランド代表にあれだけ苦戦を強いられたのに、今度はさらにランキングの高いベルギー代表が相手だと聞いていたから、5点くらいとられても仕方がない、くらいに思っていました。多くの人もそう思っていたでしょう。
でも、後半開始早々に日本代表が、なんと2点も先制してしまって、みんな一気に天国に上ったような気持になったのだろうと思います。勝てるという期待が膨張してはちきれんばかりになった。
それが残る30分で一気にひっくり返されてしまったのです。しかも最後の逆転は、アディショナルタイムの残り1分で起こってしまった.....。
試合前の期待に比べたら、2点も取ることができて、世界ランキング3位のチームをここまで追い詰めたということだけでもすごいことなんだけど、一気にのぼりつめた期待から奈落までの距離は、やっぱり壮絶に髙かった。高すぎました。
まるで目の前のものが一瞬で崩壊していった先月の北大阪地震を、もう一度くらったようなショックを受けました。試合直後の監督や選手たちの茫然自失とした声が、まさに被災した難民の声のように聞こえました。

それでも、悲観ばかりしているわけではなくて、何か希望のようなものも感じました。これだけの「命がけ」ができている人って世の中にはそうそういないでしょう。それをまた美しいとも感じました。
サッカー選手たちの選手生命は短くて、今の代表選手の多くは次回4年後のW杯大会のときには入れ替わっていることでしょう。
それでもこの日本代表選手たちの壮絶な体験と、多くのファンがまぶたに焼き付けたものが、次の選手たちにバトンとなって渡されて、きっとまた一層、さらに強く深く根を張る雑草のように蘇生するのではないか、とも感じるのです。

 

命がけ。というものをまさに、この目でみました。

 

命がけ。というのはこういうものであるということを体感しました。

 

選手たちには、またがんばってほしい。

 

僕も僕なりの限界に命がけで臨んでいけるようにがんばりたいと思います。□

おいつめるもの

本日の朝3:00AM。

サッカーワールド杯ロシア大会決勝トーナメントで、日本代表がいよいよベルギー代表と戦います。

ロシアとは時差があるから試合はいつも深夜です。
23:00からの試合はなんとかみられるけど、さすがに3:00AM開始はちょっときついなぁ....。なんて口をそろえて言っていた連中が、今日は早く家に帰って、すぐ眠って朝3時に起床して試合を見る!と言ったりしている。たぶん、本気だと思います。
でも、ふつうじゃあそんなことしませんよ。
それほどの無茶をさせるほどの魅力を、また応援したいという使命感を、サッカーの試合が、日本全土に放っているということです。
どんな人でも、どうしてもなんとかしたい。と思ったことは常識を外れた無茶をしてでも、絶対にやるんですよね。

改めて、人を動かすチカラは「おいつめるもの」だと思っています。
サッカーの試合が3:00AMに開始することは自分では決められない。
だから見たい人は無理をしてでも、3:00AMにテレビに向かえるよう、自分をおいつめなくてはいけない。
絵を締め切りまでに描くのもそうです。20日で描ききらなくてはいけないという〆切においつめられて、なんとか完成させるのです。
試合をする選手たちだって、負けたら最後だ。と追い詰められて戦ってる。

世界をたのしくするのは「おいつめるもの」と友達になることですね。

さあ、試合が始まるよ!

#今日は異例のブログ深夜更新をしてみました。□