手に入らないもの。について

夏目漱石を読んでいる。


夢十夜」から入り「永日小品」→「坊ちゃん(再読)」→「こころ(再読)」→「草枕」→「二百十日/野分」を読み終えた。今は三部作から「三四郎」を読み始めている。

今更この優れた文学に言葉ですごいすごいと上塗りしたところで、もはや何の意味もないのだろうが。悲しい哉やっぱり言わざるをえない。



素晴らしい...。



まさに文豪とはこの人のために生まれた言葉なのではないか、とすら思われる。
たった数百円でこれだけの芸術を買えるとは。日本人でよかった...。


なんでも今度「夢十夜」が映画化されるらしい。
監督陣をみるとうむむ。とうならざるを得ないような布陣なのだが、個人的には心配でたまらない。
そもそも文字であることが一番の美しい表現形態であるものを映像世界にひっぱりだす、という行為はきわめて危険である。
これまでに映画界は何度同じ過ちを繰り返してきたのだろう。


わからないこともないのだ。
例えば、桜をみたときのあの感動が、どうしても手に入らないあのもどかしさ。
写真で写してみたり、絵に描いてみたりしても、あの美しさ、儚さ、におい、温度...は決して手に入らない。わかっていても人はシャッターを押す。キャンバスを立てる。
それと同じようなものなのだと思う。あの美しさを自分ならではの表現手段で自分のものにしたいと思うのであろう。

表現手段、表現内容ともに完成されたものに手を入れるということについて、そういう切なさ、儚さみたいなものをかみしめてくれていたらきっといいものになるのだろうとは思う。


期待はせずに待ってみようと思う。□