そういうふうに生きていく

盆休みに、上野の森美術館にて開催中の「第22回 日本の自然を描く展」を見学した。


本展にて、悲願の冠賞「彫刻の森美術館賞」を受賞した。
更に、出品した2枚共に入選することができた。


会場を入るとすぐ受賞者の絵が並ぶ。
そこに自分の作品が2枚並べられて展示されていた。


「2枚分の空間を確保する」。そして、「展覧会の全期間中に展示してもらう」。


昨年同展を見学したときから、その2つを目標にしてきた。


大変な名誉をいただいたのだが、その感激を受け止めるや否やすぐそれが疑いに変わる。


「なぜ自分ごときが入賞できたか?」


世の中広い。上には上の存在はどこにでも、無限にいる。
そんな中でどうして俺ごときが冠賞にくいこめたのだろうか。


おそらくそれは、自分より優れた人間が、ただ偶然このコンクールに出品しなかっただけのことなのだろう。
もし彼らが出品していたら、自分の絵などひとたまりもなく、落選だっただろう。



絵を描く環境に身をおいていると、自分と同世代の人間がほとんどいないことに気づく。


自分くらいの年代の人間は概ね家庭を持ち、子供をもち、日々の仕事に忙殺され、絵を描く余裕など全くないのだろう。
現に、出品者は定年や子離れを迎えた年配の人間ばかりではないか。


それに加え、更に世の中には、時間がない、経済性がない、等の理由で自分などよりももっともっと優れた人間が埋もれているはずなのだ。


だが、自分はそれだけ謙虚である反面、そういう時間や経済性を作り出せたことは自分の才能でもあると思う。そういう傲慢さもある。


時間がなかろうが、お金がなかろうが、やる人はやる。


仕事や家庭の忙殺を理由にこちらの世界に背を向けたことも「あきらめた人」という点で才能がないのと同じなのだと思う。


つまり、才能の放棄は、才能がないことと同じ。ということだ。
逆に言えば、才能を使いこなすことも才能。ということだ。


となると、やっぱり総合的に見て自分の評価は一つの安定した評価だったとみなしていいのか?
だがそれでもやはり、自分への疑いは晴れない。


才能を放棄しようがしまいが、そういう力を持った奴がどこかにいる。と考えるだけで全然勝った気になれないのである。これはもう病気のようなものだろう。


自分はどこまでも世の中に埋もれた見えない才能をおそれて生き続ける宿命なのかもしれない。□