ラクなんてない

仕事が苦しい......。


以前からずっとそう思っている。思い続けている。


時折、酒などの席で同期が、もらす俺に向かって「そんなに大変か?おれはそこそこ楽しくやっているぜ」。


みたいなことをのたまう。


そのたびに、俺は毎日の自分を、今を楽しめていない自分に劣等感を感じ続けてきた。


だが、今になって思うのだ。


「今を楽しんでいる」。なんてことが本当にあるのか?あっていいのか?



今を現在進行形で「楽しい」というやつこそ「幻影」なのではないか。


「今が楽しい」という発言。
それは、今自分のもっているものをそこそこ出していたら特に誰からも咎めもなく、適当にほめられたり注意されたり、そんな互いを傷つけない程度のゆるい領域でお互いを許しあっている。そんな状態を指すのではないか?


一言で言えば、「楽しんでいる」というより「今がラクである」というだけなのではないか。と思うのだ。


人間はラクをしたい生き物である。いつもラクをしたい。その隙を探している。
できることなら今たずわさる仕事で、今ある自分のスキルで、とくに苦しみもせず、痛い思いもせず、そのまま人生を逃げ切ることができるなら、そのまま逃げ切りたい。と思っているのではないか。


「今が楽しい」というやつは所謂「定常状態」という状態に陥って、ただその「安定」に一生身をゆだねようとしているだけではないのだろうか.....?


俺が、この2年間で働いていた職場がまさにそれだった。と今になって思う。


今から振り返ると、あの頃は、第三者に対し、まさに進行形で「今が楽しい」と説明する職場だった。
だが、その後、その組織は崩壊した。そして俺は大阪に戻るはめになった。


「今が楽しい」などと発言する状況は、実は現状に満足し、安定し、落ち着き、更なる上の境地を一切目指すことのない甘えた状況、現状に依存するゆるい姿勢、向上心を捨ててそのまま人生を逃げ切ろうとする脆弱な心の表れではないか?そして、その先の来るべき「崩壊」を予見させうるものではないだろうか。


仕事は苦しい。たぶんこれからもずっと、苦しい。


だが、それはむしろいい状況ではないか、と今になって思う。
それこそが自分が、組織が上に向かって邁進している状況ではないだろうか。


そして日々苦しいそんな中でも、時折、光がさすときがある。


本当にその一日はあったのだろうか。と思うくらいに追い詰められ、頭を悩ませ、自分なりの考えをまとめることに忙殺されている日々、自らの自我すら消滅しうるような過酷な状況の中、時折、同僚が上司が自分に対し「がんばっているな」とさりげなく労ってくれる瞬間があったりする。その一言のなんとうれしいことか.....。そしてそれまでの苦しかった、痛かった過程を振り返り、がんばった甲斐があった、あのときは大変だったが、今振り返れば、「あの時は楽しかった」。という言葉がもれるのである。



つまり、「楽しい」というのは現在進行形で使うべき言葉ではないのではないか。
「今はいつも苦しい」のであって、振り返ったときに「楽しかった」と過去形で使われるのが本当の正しい使い方ではないか。それこそが、真のサムライの姿勢ではないか、と思い至ったのである。


以来、僕は「今を楽しい」とかのたまう奴を、またはそういう奴を内包している組織を疑う。


人は安定に落ち着きたいと思う生き物だ。だから、時にはそれまでの過程を振り返り、今の安定をかみ締めてもいいとは思う。
だが、それがずっと続いてはいけない。その安定の先にあるのは「崩壊」である。


ひとつの山を乗り越えたときには、もう、すぐ次の山の頂に向けて出発していなくてはいけない。
そしてときおり訪れるわずかな時間だけ、それまでの道のりを振り返り「遠くへきた」「楽しかった」と思いを馳せ、また進んでいく。苦しみの先にあるわずかな楽しみを目指し進んでいく。


そうあるべきだと思うのだ。人生、ラクなんてない。あってはいけない。□