大切な堤防

ついにWiiを購入した。


きっかけは、スーパーマリオ25周年記念で赤いWiiが発売されたというところにあった。


が、WiiFitだのWiiResortだの、いわゆるWiiらしいゲームには、何ひとつ手を出していない。


手を出したのは、バーチャルコンソールのアーケード版「スペースハリアー」である。


ゲームウォッチからファミコンに始まる家庭用ゲーム機と共に育ってきた自分には、同時期のアーケードゲームに強烈なコンプレックスというか、憧れのようなものがこびりついている。


当時、自分が通っていた学校ではゲームセンターへの入店が完全に禁止されており、もしそれが見つかったりでもしたら先生にはげしいビンタをくらいまくる、というおそろしい指導が待っていた。
今となってはデートスポットであるゲームセンターも当時は不良のたまり場のレッテルが貼られ、容易に近づける場所ではなかった。


だが、それに対し、家庭用ゲーム機では絶対に手が届かなかったゲームが、ゲームセンターにはあり、とくにこの時代、namcoの「源平討魔伝」「ドラゴンバスター」「パックランド」「ドルアーガの塔」、SEGAの「ファンタジーゾーン」「アウトラン」「スペースハリアー」、CAPCOMの「魔界村」など、リリースされるものの多くがまさにアーケードゲームの黄金期を支えた傑作ばかりだった。


中でも体感ゲームシリーズの代表作「スペースハリアー」はその時代を象徴する大傑作だと今でも思う。


ゲームの映像のパワーもさることながら、それまで「ピコピコ」といわれていたゲームミュージックの「ミュージック」としてのアイデンティティを確立させ、また、画面にあわせて筐体が動くというギミックも手伝い、当時のゲーム業界で圧倒的な存在感を知らしめた。
そしてPCエンジンだの、SEGAマスターシステムだの、多くの家庭用ゲーム機に移殖が試みられ、その移殖の完成度によりそのゲーム機のステータスを図る指標にもなった。
(が、結果はほとんどは取るに足らない移殖度合いであり、アーケード版の圧倒的な存在感をさらに強めるだけでしかなかった....)


ゲームセンターにいけない自分は入口のそばから店内を覗き見して、アーケードゲームへの憧れをいっそう強くしていたのだった。


あれから20年ほどたった今、当時の憧れのご本尊ともいえる、あの「スペースハリアー」が、しかもアーケード版そのものが、たかが¥800でまるごと買えてしまうという時代。そんな時代がやってきてしまっている。


気がつけば家庭用ゲーム機はアーケードゲームのスペックをはるかに追い越してしまっていた。
自分があの当時アーケードゲームやPC88だのに感じたような、喉から手がでるような乾きや憧れはもうこの時代にはない。
現代の少年たちは気がつけば、潤沢なリソースをもつ強烈な家庭用ゲーム機が目の前にあるのである。果たして、それは幸せなのだろうか。


あのときどうしても手にしたかったアーケードゲームへのあの憧れ、あの渇きを今容易に手に入れられてしまう喜び。
だがその反面、はてしなく遠かったあの憧れが消えてしまった喪失感、刹那さが混在する。気持ちは複雑だ。


ゲームに限らず、寿司屋にせよ、舞妓さんにせよ、やはり「容易に手の届かないもの」は手の届かないまま、憧れのまま残しておいてほしい気もする。


行き過ぎたサービスや過剰な消費社会は、みんなの心にあった「大切な堤防」をどんどん破壊してしまってる。
手に入れて、その挙句、失いたい。に辿り着くこのエゴイズム。日本人って利口なのか、馬鹿なのか、ときどきわからなくなる。


そんなことを考えながら、Wiiリモコン+ヌンチャクでスペースハリアーをせっせこと遊んでいる自分なのであった....。□