美学の果て

ジャクソン・ポロック展@東京国立近代美術館。を見てきた。


すごかった。


すごかった、けど。.....痛い。


会場のど真ん中に部屋一つとって鎮座する「インディアンレッドの地の壁画」。


圧倒的な存在感である。


何重にもわたって散らされたペンキの軌跡が、この世の生きるものすべての動きを画面に定着させたかのような、重厚で堅牢な画面。


すべての意識や属性を捨て去りながら、確かに我々にも認知できる「芸術」として定着している。


見る。というより、感じる絵画。である。


展示は、その絵を中心にし、前はそこへたどり着くまでの、後はそこから次を探す過程の作品が展示されるのだが、あるのはどちらも「荒野」である。


酒に溺れながらしがみつくように辿り着いたこの境地であるのに、そこに長く居座ることもできず、次のテーマを探しに行かずにはいられない。そしてそれが見つかるどころか、むしろどんどん退化していくかのような虚無感、焦燥感。


見る側の願いは、いつも「余裕を見せてくれ」ということだけである。


だが、あの傑作の前後に見えるものは、苦しみや痛みのみである。


アーチストは孤独である。たくさんの仲間たちと共同責任でやるものでもない。作品のコンセプト立案から完成・発表まで、すべて一人の責任なのである。


ふと、靉光を思い出す。


彼の「目のある風景」とポロックの「インディアンレッド」が重なる。


この一枚さえあれば死んでもいい。というほどの一枚である。そして彼らは、本当に死んでしまった。


その痛みや苦しみも作品の一つなんです。という言い方もあるのだろうか.....。


確かに自分はそこまで自分を追いつめることはできない。それが作品の魅力ではあるのだが.......。


美学の果てにあるものを見たと思う。□