デフレの正体

眼鏡を新調した。レンズの表面のコーティングが取れてきたためだ。


JINZのメガネが安いという噂を聞いて梅田に出かけた。


東京発の格安眼鏡屋で最近になってようやく大阪にも店舗を拡大しているようだ。


フレーム、レンズ合わせて5000円程度であっという間に新しい眼鏡が出来上がった。


安すぎるのもちょっと心配だったが、それほどひどいわけでもない。


もし失敗したとしても安かったので諦めもつく。


だが、ちょっと待て。そこまで考えて少し不安になる。



JINZのWEBを見ると、安さの理由に「これまでの無駄な販売工程を排除」とあった。


従来の眼鏡販売にて商品が客の手に入るまでに要していた商社、メーカー、販売店といったいくつもの工程を排除したとのこと。


が、これって、いいかえれば、商社、メーカー、販売店の雇用が無くなったということですよね?


消費者としての客はハッピーなのかもしれないが、その客が翌日働きに職場に出たら解雇されているかもしれない...。


そんなことを考えもせずに目先の安さに飛びついて眼鏡を買ってしまった自分であったが、実はこれこそが、まさに今の日本をより苦しめるデフレの正体ではないのか?



安さなんて消費者観点の一時的な喜びでしかない。逆に言えば明日の自分たちの仕事を失うことに拍車をかけているだけなのである。


それぞれの工程には必ず意味があり、それが商品の価値を上げ、質と価格のバランスを作り上げるのだ。


そもそも無駄って何?無駄扱いされた仕事に携わる人々の気持ちをもう少し汲むべきではないのか。


消費者と自社のみハッピーになればよいという思想は改めるべきではないか。


もちろん古くからの形骸化したやり方が商品をより良くすることの足かせとなっているのであれば、見直す必要はあるだろう。
だが、あくまでも、最低限これまでのお互いの関係を損なわないことは必須だろう。


ブランドという栄えある敬称はその先にある。


弱き者は去れ。やった者勝ちだ。自分たちが生き残ればそれでいい。....そんな発想の果てに今の日本があるのではないか。


多くの人がそれぞれの役割にて真摯に仕事をした結果、商品が高くなったとしても、それに並ぶぴかぴかの商品ができたのであれば、多少高くともお客さんは買ってくれるはずなのである。


自分含め、多くの日本人が袋小路にたどりついたこの過程を猛省し、この基本的な考え方に立ち帰らなくてはならないのではないか。


一年に一度の記念日だけ奮発して1万円の寿司を食べる。おこづかいをこつこつためて一生使える万年筆を手に入れる。ボーナスで10年着こなせる立派なコートを購入する。....


容易に手に入らないからこそがんばって手に入れるし、がんばって手に入れたからこそ大切に使う。思い出に残る。


それが消費の美学です。今の日本の消費には美学が無さ過ぎる。


思えば、実家の寿司屋も、この流れで潰れてしまったといえる。
今回の件、寿司ではなく眼鏡ではあるが、俺は眼鏡屋をつぶすのに手を貸したことになるのではないか。


結局、日本人の誰もがうつむきながら仕事をしなくてはいけなくなったのはこういう即物的な消費のありかたを続けてきてしまったからなんだぜ?


ちょっと今、冷静になってみようぜ。日本人?□