「増田君は普通ですね」といわれる。
ある切り口では「美徳」なのかもしれない。
でも僕の切り口ではこれは「悪徳」になる。
大変よくできました。
ふつうです。
がんばりましょう。
もっとがんばりましょう。
......良いか。悪いか。を決める評価ラインの上での「ふつう」は
「いてもいなくてもいい」とも取れてしまう。
とても「美徳」とはとらえられない。
かといって増田はすごい。増田は特別だ。と言われたいわけでもない。
そんな人間でもないし、最早そんな人間になりたいとも思っていない。
優れているとか落ちこぼれているとかそんな評価には関心がないのである。
かつて「増田さんは不思議ですね」といわれたことがあった。
以来これを越える「褒め言葉」にであったことはない。
「良い」でもなく「悪い」でもなく「ふつう」でもない。
どこにも位置づけすることができないアイデンティティ。
それをもらうことがこの上ない人間の評価なのではないか。
嬉しいと悲しいの間。とか。気持ち良いと気持ち悪いの間。とか。
言葉にできない気持ちや感覚、評価。
以前に増して定量化が難しい問題に直面する日日を続けていく中で、
価値のあるものは定量化できるもののはざまにあるものだ。と気付き始めた。
自分が絵を描き続けるのも、そこに根源や理由があるように思う。
定量化できないから、言葉にできないから、絵にするのだ。
物理的にかぐことのできないにおいを描く。とでもいおうか...。
そのにおいを自分だけでなくみんなとと共有したいからなのだと思う。
「人」は、良いでもなく、悪いでもなく、普通でもない。
その「人」が、良いでもなく、悪いでもなく、普通でもないものを作る。
そうやって歴史はつくられていくのではないか。
増田力也は普通じゃない。□