愛されるということ

ギリシャの経済破綻があったころ、
ニュース番組で「ヨーロッパ人は互いをどう思っているか」が
紹介されていた。.ソースは米ワシントンポスト紙だったと思う。(↓)

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「イタリア」を良く見ていただきたい。
なんとイタリアは自らを「最も信頼できない国」に挙げているのである.....!(笑)
そしてダントツで「信頼できる国」のドイツからも信頼できないと思われている。

かつて自分は、フィレンツェベネチアボローニャミラノ等、
イタリアのいくつかの都市を回ったが、
フランス、スペイン等に比べ最も居心地がよかったと記憶している。

イタリア人はルネッサンスの爆心地であることを誇りに抱きながら、
その陽気さといい加減さで、ある意味「愛されキャラ(国?)」として
ヨーロッパの中に君臨しているように思える。
「最も信頼できない国」と自らを言い切るそのいい加減さ、ゆるさが、
かえって周りの人をほっとさせ、喜ばせ、楽しませているのだと思う。

ドイツのように堅実に「信頼できる」というステータスを持つことも
大切なのかもしれない。
だけど「信頼できない」もある意味「人を喜ばせる」=「愛される」
というステータスとしてと捉えることもができ、信頼に匹敵する大切な
ステータスになるのではないか、と考えてしまう。
(ヨーロッパのそこここでテロが起こる中、イタリアがその難を免れている
のは偶然ではないような気がしている....)

個々の人間について思うときにもそれは当てはまるのではないか。
世界をぐいぐいと引っ張る優秀な人間も確かにすごいかもしれないが、
まぬけでも人をほっこりさせ喜ばせる人間も世界を動かす一つの役割を
担っているのではないだろうか。

そんな考えにしがみつきながら、まぬけな姿をさらけだし日日僕は生きている。□