譲れないものを受け流すこと。

誰にでも、どうしても譲れない。どうしても大切。ってものがある。

「譲れないから、譲れない」

「大切だから、大切」

「嫌だから、嫌だ」

そこには理屈も理由も無い。
とにかくそれはその人にとって譲れなくて、大切なんです。
その人だけ、なので僕らはたぶんその大切さがわからない。
でも彼にとってはそれが絶対に大切。
だから彼が大切にしているそれを、僕らはそうなんだと知り、受け入れ、受け流すしかない。
それを、こちらの思うように変えてもらおう、なんて決して思ってはいけないのでしょう。でも僕らは思ってしまう。
世の中の対立の多くは、この「受け入れ、受け流す」ができなくて「変えてもらいたい」としてしまうから起こるのではないか。
ジョン・レノンポール・マッカートニーの対立とか。そこここにある小さな夫婦の対立とか。大から小まで、そのような対立は全部「受け入れない、変えてもらいたい」とすることに原因があるのではないだろうか。

いつも冷静で理にかなった説明や立ち振る舞いができている人ですら、「譲れないもの」が揺るがされそうになったときの説明や立ち振る舞いは、とても稚拙になっていたりする。
自分自身でも、それが自分にとって「嫌だから嫌だ」とはっきり気づいていないこともあったりして、いつもどおり冷静に説明しようとするのだけど、ほとんど理解できないことを話していたりする。
「嫌だから嫌なんだよっ!」と言ってくれるほうがまだましなんだろうけど、そんな子供じみたことを言えないし、言ったらこれまでのキャリアを否定することにもなりかねない。そんな心理から、知ってか知らずか、なんとかいつもどおりの説明で乗り切ろうとしている。そんなのはいくらがんばっても説明できるものじゃないのにさ。

結局そうなっちゃったら、僕らはお互い子供に戻るしかないんじゃないかな。

「ごめん。うまくいえないけどやっぱりそれは僕にとって嫌なことなんです」と言ってしまうんだ。照れずにかっこつけずに。

へんなやせ我慢で生み出された歪んだ世界よりも、やっぱり最後は素直さが一番綺麗なのかもしれない。

........そんなことを書いていたら、トランプ大統領も綺麗なのかもしれない。などとも思い至ってしまう。

お互いの「譲れないもの、大切なもの」を大切にしたいものです。世界平和はここから。□