遭難

絵を描くことでいちばん苦しいのは、設計書どおりに描いたはずなのに、その絵がちっとも面白くなかったことに気付いてしまったとき。です。

海のかなたにある宝島をめざし、大航海を乗り切るためのありとあらゆる食料、道具を舟につめこんで、計画を綿密に立てて出発したものの。大海原のど真ん中まで来て、全ての食糧が尽きて、全ての道具を失ってしまったような気持ちです。いわゆる遭難です。

絵を完成させるということは、このどうしようもない絶望から、なんとか手を打って目指していた宝島(かそれに近い場所)へたどり着くためのサバイバルのようなものです。
その絶望が最近、たまにではなくってほとんど1枚描くごとに、毎回やってきているような気がしていて。そして気付いてしまったのです。..........これが絵を描くということなんだ。

計画通りに描いて計画通りにできる絵は作品ではないのですね。
ちょっと過激かもしれないけど、誰でもできてしまうような作品は、見る人にとっての価値になってくれない。今の僕の絵が価値になっているとはとても言えないけど、この遭難するような感覚が一層強いときほど、作品の価値は高くなっているのではないかというような気がしています。
尊敬する他の作家の先生たちも同じ気持ちで描いているのではないだろうか。10回か20回くらい死ぬような遭難を乗り越えて絵を作っているように思います。

個展制作は枚数をたくさんかかなくちゃいけないから、これが同時に20回くらいやってくるんです。
どうです?いかれているでしょう?
今改めてそれを言葉にしたとき、自分をつくづく変態だと思ってしまった....。

そうです。変態なんです。もっと変態にならないといい作品は作れないのだ。もっともっと変態で行こう。(すみません、今日の僕、相当ヘンですね。あ、いつもかな)□