「やられた」という感覚

ホテルの予約状況や過去の販売動向をAIが分析して、最適な宿泊料金を決める。
とあるベンチャー企業がそんなシステムを開発したらしい。

「やられた!」と思いました。

たぶんニュースが伝えたかったのは、今どきは商品の値付けですらAIが決める時代である、という報道なんだろうけど、僕にとっては「その手があったか!」みたいな。先を越されたショックを受けてしまったのだった。

この「やられた」という感覚。
「それ、僕がやりたかったんです」という感覚。
スピードスケート女子マススタートで、最後の最後に高木菜那選手に追い抜かれ金メダルを逃したオランダ選手のような感覚。
なんだか、いつもこの感覚ばっかりなんだよね、僕。
一度は「やられた」ではなくて「やっちッたぁ~ッ!」という感覚に浸ってみたい。

イノベーションがしたい。といつも思っています。会社の業務でも、絵画制作でも。
小さくてもいい。とにかく何か新しくて光っているものを自分の中から発信したい。
日日それに向けて、あれやこれや試行錯誤を繰り返してはいるのだけど、どうもやるほどに遠ざかっている感じがします。で、そしてその隙をつかれて「やられた!」と叫んでいる。いったいなにをやっているのだろう。

少し前には、まだまだ時間はあると思っていた。でもあれからだいぶ長い時間が経ってしまったように思う。このままずっと「やられた」という敗北感ばかりで人生が終わってしまうのではないか。
ゴールもすぐ目の前に見えていた。今も目の前に見えている。ドラクエ竜王の城みたいに。でもそこに到達するために、いろいろな仕込みやら試練やら強い想いやらが待ち受けていて、なかなか思うほどうまくはいかないみたいだ。

これからもずっと「やられた!」ばかりかもしれない。
でももう一つの側面からみたら、僕はこの「やられた」という感覚が嫌いではない。この感覚は創造を目指す者だけが味わえる特権とも思える。この小さな失望がばねになって次の野心にまた火をつけてくれているような気もするのです。
いつかこの感覚をひっくりかえすという想いを絶やさず、小さな確率を上げるための仕事を継続していくしかないのでしょうね。□