新しいやり方

日大アメフト悪質タックル事件が連日テレビを騒がせている。

体罰問題が連日報道される時代になりました。
体罰をした教育側は、つるし上げられて社会復帰できないほどの糾弾や処分を受けています。
世の中の教育機関はすっかりこれまでのストイックな指導方針を見直さざるをえない形になりました。

僕の幼少のころは、体罰はふつうでした。
中学生のころ、もともと音楽室だった僕の教室には、すみにピアノが置かれていました。
ホームルーム前に友達とピアノを弾いて遊んでいたとき、担任が入ってきて「今ピアノを触っていた奴ら、前へ出ろ」と一列に並ばされて、ビンタを喰らいました。そんな毎日でした。
野球部の友人は、練習中に水を飲むことを禁じられ、吐くまで走らされたという話も聞きました。
こんなことはもう許されない時代になったのですね。

でも僕は、あのころ受けた体罰というものは、ありがたかったな。と感じることがあるのです。
もちろん僕も、体罰には賛成しません。
でも「必要最小限の体罰」はときには必要なことがあると思います。
親からも先生からもたたかれたことのない少年が、体での痛みを知らずに大人になり、つい包丁で友人をさしてしまった。実験してみたかった。なんて事件もあります。
モラルの常識的な境界を覚えるのに、体を通じて覚えるという手段はあってもよいかと思うのです。

スポーツの指導についても同様です。過剰なのは論外ですが、ある程度の厳しさはあってもいいと思います。
僕は絵を描いていますが、ある程度の質まで作品や仕事の成果を高めるためには、常識を越えた緊張の中でがんばらなくてはいけない。一人でその境地までもっていける人もいるかもしれないけれど、多くは指導者がいて、はりつめた空気で外的なプレッシャーを作り、追い込んで磨き込みを行ったりします。
「いいねいいね。はいよくできました~」という環境で、これまでの先輩方が残してこられた素晴らしい成果につづく、とがった仕事や作品をぼくらは出していけるのか。不安を感じます。

時代なんだね。
でも環境は変わっても人間は人間だから、時代に関係なく、やる人はやるんだろうね。
新しい環境で自己をストイックに研鑽する新しい手段をみつけだしていくのだろう。そう願い、期待したい。

働き方、指導の仕方。世界の変化を受け入れ、僕らはいつも新しいやり方を考えていかないといけないのだろうな。

 

今こそ、映画「セッション」はみんなに見てもらいたいなぁ。すごすぎて笑ってしまった。狂気の足りないぼくには、むしろ憧れすら感じてしまいました。□