ぶれる。

 

「以前の絵は詩情があってよかったけどなぁ」


先日行われた勉強会で、先輩の絵描きにそんなことを言われた。
「はい、そうです。僕は自ら詩情を捨てたんです」と口には出さず、先輩の言葉を流した。
彼らが言う、その「詩情」とやらは、ねらって出したものでは無い。見た人が勝手に感じてくれたものだ。
自分では自覚していなかったが、かつての自分の絵にはそういう魅力があったのだと、人から言われて初めて気が付いた。自分というものは自分のことが一番わからないものである。
いつまでたっても前進しないその絵を、僕は憎んだ。
もっともっと洗練されて、とがった絵画を描かないと、誰も見てくれない。
琳派日本画のような、詩情やにおいを徹底的に排除したデザインセンスにあふれた絵画を目指そうと思った。そして、僕はぶれたのです。
あのみすぼらしい絵を捨てたら、きっともっと僕の絵はかっこよくなるはずだと思って変えてみたのだった。だけど、結局、新しい絵にしたところで賞賛なんて何もなくて、聞こえてきたのは前の絵がよかった。という声ばかりだった。

もしかしたら、前の絵の方がよかったのだろうか?
僕はまたぶれようとしている。
どんな世界でも、ぶれてしまうと、それまで積み重ねたものは、全てリセットされてしまう。もう一度、経験や実績を積みあげ直さなくてはならなくなる。
そして、そんなことが繰り返されたら、もう積み重なるどころか「お前はいったい何がしたいんだ」という僕自身の人間の水準までもが落ちぶれてしまうのである。

ぶれずに、ひとつのことを初志貫徹するのが、人間の最も美しい姿です。

イチロー選手は小学生にして、将来の大リーグでの活躍を宣言し、たったその1つだけに邁進した。
だからこその、あの美しさであって、誰もがため息をついてしまうのである。
「野球をやります。やっぱりサッカーをやります。あ、やっぱりラグビーやります」なんて言っている人間はもうその世界の誰からも相手にもされなくなってしまう。今の僕は、そういう危機に追い詰められているのかもしれない。

今、決めた道を、今、目指した世界を、ぶれずに続けてみたい。

それは自分のこだわりへの、最後のあがき、最後の挑戦だと思います。□