今もどこかで

 

バタフライ効果っていうんですかね。

 

就職活動をしていたころ、いろいろな企業を見学しました。
最終的に1つに希望をしぼって今があるわけなんだけど、あのとき東京の企業を選ぶことだって充分に可能性としてはあったわけです。
何かの力や、何かのタイミングがあって今があるけれど、ちょっとしたきっかけで今が変わることだって充分あったと思うんです。
そうしたら僕は今、大阪ではなく東京にいたかもしれません。またはその後何かがあって、また別の場所にいたかもしれません。

もし、今僕が大阪にいなかったとしても、これまで大阪で出会った人たちは、確かにここで生きていて、僕という存在に全く気付かないまま、これからも生きていくことになったでしょう。
逆に、僕が東京を選んだとしたときに、東京で出会うはずだった人たちは、必ず今も東京で生きていて、これからの人生も、僕という存在に全く気付くこともなく生きているのです。

先生と出会うことがなかったとしても、僕はどこかで絵を描いていたと思います。
でも今のような作品を描いていたとは思えません。京都や奈良、スケッチ旅行で見た幾多の美しい風景や、建築、美術の数々が僕の今の絵を作っている。
そもそも油絵を描いていたかもわかりません。なにかが1つ変わっただけでも、全部が変わったことでしょう。
先生の方も、僕と出会わなかったとしても絵画制作を続けていたでしょう。でも、週末に仏像を観に行きましょうという提案する僕はいません。きっと僕の代わりの人間が、何か別の提案をしていたかと思います。きっと先生の絵の内容も大きく変わっていたはずです。


1つの選択で、めぐりあえた今の親友。

 

1つの選択で、めぐりあえずに終わるどこかの親友。


ほんの小さな風に吹かれて動いた道端の小さな小石が、大きな波を引き起こして、僕を、すべての人々を、常に変えているという現実。

でも、出会いがどうであったとしても、自分が自分であることには変わりはなかったでしょう。
どこにいってもやっぱり僕は「雑草」であったと思います。
ならば、これからは、せめては「楽しい雑草」で生きていきたいなぁ。そう思います。

世界ってやっぱり不思議です。□