喧嘩してしまいました。
「原子力発電所、やめましょう」
そんな感じだったのだろうか...。
原子力発電所をやめるということは、これまで原発に関わってきた多くの人々の思いや価値、さらに無意識のうちに原発の価値に寄りかかって生きてきた人々の全てを、否定する、消去する。ということです。
やめましょう。の一言でやめられる問題では、もはや無いのでしょう。
それでも、ぼくは「やめましょう」と言い切ってしまった。それが「喧嘩」です。
一つの側面では、価値は決められません。お互いが正義なんです。どちらかの勝ちも決められません。
そんなふうに柔軟に考えようと思っている僕ですら、今日。
どうしても自分の考え方を変えなくてはいけない岐路に来てしまった。だからこその、喧嘩です。
喧嘩ってのは、本当に後味が悪い。
喧嘩ってのは、これまで何十年も生きて培ってきた相手の価値観を、自分の価値観で強制的に上書しようとする、または、そのときの自分の価値観を正義とし、相手を悪として受け入れさせる、という行為です。
でもそんなことの多くは喧嘩で白黒つけるものでは無い。むしろそんなことをするほど見苦しいのですよね。
そうわかっていながら、でも、やっぱり僕は譲れませんでした。
これまでの自分が悪だったと受け入れたとしても、これからの人の可能性を否定するということはどうしても受け入れられなかったのです。
今なお、過去の栄光に寄りかかりながら、それを継承させること。あるいはそれを否定して新しい世界をつくること。
今を生きるリーダーはこれからの道でどちらかを選ぶかの選択を迫られている。そういう所に日本は来ています。
鎖国か、開国か。
ルーブルか、オルセーか。
そんなところなんだろうなぁ。正解は無い。でも僕は開国。そしてオルセーです。□