木下大サーカスとシルク・ド・ソレイユ

幾時代がありまして
 茶色い戦争がありました

幾時代がありまして
 冬は疾風吹きました

幾時代がありまして
 今夜此処での一と殷盛り
  今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁
 そこに一つのブランコだ
  見えるともないブランコだ

頭倒さに手を垂れて
 汚れ木綿の屋蓋のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
 安値いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
 咽喉が鳴ります牡蠣殻と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外は真ッ闇 闇の闇
 夜は劫々と更けまする
  落下傘奴のノスタルヂアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

(中原中也「サーカス」)


高校時代に初めて読んた中原中也「サーカス」を、改めて読み直してみた。
この詩に描かれる「黄色い時代」では、今はもうないけれど、こんな豊かな現代になっても、サーカスってのは、矢張りどこかにそんな「におい」や「悲哀」が残っているものです。

木下大サーカスにも「悲哀」があった。
日々の大変な現実から逃げるようにサーカステントに逃げ込んだ僕らの前に、ピエロや芸人たちは、ジャグリングやオートバイや空中ブランコやマジックショーなどの華麗なアクロバットや道化を演じて魅せてくれる。
だけど、彼らの背中からは、僕らよりも一層大変な現実が滲み出しているように感じるのです。
ライオンやシマウマまでもが、僕らの現実を引き受けて、楽しませてくれてしまうのです。
自らの時間や命を引き換えてでも、僕らに喜んでほしい、大変な現実を忘れてほしい、という彼らの健気さを感じて、僕はきゅんとなってしまうのだ。
でも僕はそんな「悲哀」を受けて、ホッとしてしまったのだった。
サーカスというものが魅せるべきものは、これまでも、これからもずっと「悲哀」であってほしいと願う。

シルク・ド・ソレイユには「悲哀」は全くない。
シルク・ド・ソレイユでは全員が「アーチスト」であり、演目は音響、衣装、セット、コンセプト全てを含めて「芸術作品」という位置づけて作られている。
その目的のために、昔ながらの「ニオイ」や「悲哀」といったものは、全て綺麗に洗い流されている。まるで生臭さを完全に消し去って差し出される一流の割烹の新鮮なお刺身のように。
動物を登場させる事も無い。全て人間の肉体の限界に挑戦する「人間賛歌」をテーマに組み入れているように思う。そいう意味で僕にとっては、シルク・ド・ソレイユはサーカスではない。

木下大サーカスとシルク・ド・ソレイユ。

僕はどちらも大好きである。

どちらも互いには無い美しさをもつ。

絵画で言えば、さながら、木下大サーカスゴッホであり、シルク・ド・ソレイユは村上隆である。


今日も読んでくれてありがとうございます。
ノスタルジーというのは生まれながらにして人間に焼きこまれているのかもしれないなぁ。□