十日戎

 

「商売繁盛、笹もって恋っ、否来いっ」

 

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初詣が終わるや否や、十日戎がやってきた。

いつもは静かな神社に太鼓の音と歌声が響き渡り、所狭しとにぎやかに屋台が並ぶ。
「商売繁盛祈願しとかなっ!」というのは単なる口実で、結局はお祭りが大好きな僕なのである。
参拝をすませてから、御神酒を片手に屋台を散策する。
何かを買うわけでもない。
賑やかなその雰囲気の中を、ただ歩いているだけでしあわせなのである。

 

射的の屋台に足が止まる。
3層になった回転台の上に並べられた景品をめがけてコルク弾を撃ち込み、景品が下に落ちたらもらえるという、昔ながらの屋台である。

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子供達が遊ぶ後ろにくっついて、ずっとその様子を眺めていたのだが(あやしいものではありません!)、本当に文字通り「昔ながら」なんだよね。
僕が小さい頃から、もうほとんど変わり映えしないんです。屋台の形態も景品も。
冷静に眺めたら、景品はどこにでもある駄菓子だったり、名もなき置物だったり、時代錯誤のおもちゃだったりするのです。

わなげの屋台も同様で、どういう用途かもわからない、去年というか、以前からずっと、全く同じ置物のようなものが並んでいます。

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だけど、それでも子供たちは夢中になって遊ぶのです。
闘志を燃やして景品をとることに夢中になっている。
そしてそれを僕は夢中になって眺めているのです(あやしいものではありません!)。

時代が進んでインターネットやデジタルの時代になって、子供たちにとって物心ついたときには、最先端のおもちゃが目の前にある時代だけれど、子供にとって楽しい、欲しい。と思うものの本質ってのは時代に関係なく、普遍なんだよなあ。
小さなおこづかいという制約の中で、最大限に遊ぶ、楽しむ方法を探す。それが射的とかわなげの楽しさのエッセンスなのではないか。

大人は変わり映えしない屋台をなつかしいと眺めて、子供はその屋台を「今」と受け止めて遊ぶ。変わる必要もない。変わってはいけないものがある。ということを強く感じました。

 

今日も読んでくれてありがとうございます。
射的も好きだけど、金魚すくいも大好きです。さすがに冬にはないけれど。□