自責か他責か

 

「それはお前の修行が足りないからだ」

 

嫁いだ先での愚痴をこぼす叔母に僕の祖父が言った一言。
それを横で聞いていた叔母の妹(僕の母)は、今なお、この一言が鮮明に脳裏に焼き付いているという。母は、以来決して誰にも愚痴はこぼすまいと決めたそうである。まさに「昭和の母」です。

今という時代は、我慢する意味などないとか、ちょっとした諍いで、やすやすと男女はお別れをするみたいだけど、やっぱり昔の女性は心根が太く強いと感じます。武家の時代から培われた女性としてのありかたを残していた最後の世代なのではないか。
そんな母の背中を見て、僕もまた母のISMを受けているように思う。

全てを「自責」と思い、覚悟し、生きようと思っています。
相手への依存が、ひずみとなって、対立となって、引いては世界をややこしくしている元凶だと思っています。だからこそ期待はしない。全て自責だと受け止める。それが世界を平和にするのだと信じています。

そう信じてきました。

が。

すべては必ずしもそうではないのだと、最近になって思い始めています。
自責にも「自責として受け入れるべき環境」と「自責だけでは受け入れられない環境」という2つがあるのではないかと思い始めています。
たとえどんなに苦しい環境であっても、それは自責、私が悪い。と受け入れられる環境であれば、それは牧場に放たれた牛のように自由な場所です。
だけど、ただ苦しいだけの環境であれば、それはただの「牢獄」です。その環境がただのアルカトラズであるのならば、とっとと脱出しなくてはいけないのかもしれない。

ぼくの環境は牧場なのか。アルカトラズなのか。

カッコーの巣の上で」を今でこそ見直したい年ごろです。□