★定年後 その1

 

「定年後の生活ってそんな感じよ」

 

アトリエで共に描いている年配の女性が言った。

このたびのコロナによる長い自宅での謹慎生活を、彼女は例えてこう言ったのだった。

今の僕にとっては、自宅にいようと外にいようと、仕事をしていることや仕事の内容になんら変わりはなく、通勤時間は無いものの、朝8:45から残業も入れて20:00前後まで働く日々は続いていて、すべては定年後の生活とは言えないのだろうけど、「寝ても覚めてもほとんどの時間を自宅で過ごし、外出は買い物だけ」という部分だけを抽出してみると、定年後の生活の片鱗をシミュレーションしているとも言えなくはない。
その女性の発言を、なるほどと素直に受け止める。

平日の業務という大きな骨格の部分がなくなって、自由時間として開放されたとき、少なくとも僕は、それを持て余した。
長い仕事生活で抑え込まれ、先延ばしにされてきた映画やら、ゲームやら、漫画やらと言った娯楽への欲求を、この機会に開放してはみたものの、楽しかったのは最初だけで1か月も過ぎるとすぐに退屈になった。

娯楽への欲求ということをもう少し深く見ると、インプット、つまり「誰かが作ったものを消費する」ことを浴びるようにしたい。ということなんだろう。

消費することを突き詰めていくと、評論家や学芸員というプロフェッショナルになるのだろうけど、僕にはそこまで消費を突き詰めていくことはできそうもなかった。

何かを作り、発信する。こう書いたとたん、古くなっているとわかっている生牡蠣を食べさせられているような嫌悪感を感じてしまったが、やっぱりここに戻らざるを得ないような気がしている。

消費をしているときは楽チンで楽しいのだけど、後味が悪い。

生産をしているときは苦しくてたまらないけど、後味が良い。

結局どちらかを選ぶしかなくて、僕にとって自分を許せるのは後者ということなんだろう。

コロナの謹慎生活は、刑務所暮らしともとれるかもしれない。逮捕されたホリエモンは獄中にいながらもブログや出版活動を続けていたという。刑務所にいようが定年で自宅にいようが、もつべきは「規律」で、それは「生産」に置き換えられるのかもしれない。(つづく)□