やさしさって。

 

「やさしそう」ってよく言われる。

 

そうなのかもしなれい。と、思う。が、

そうでないのかもしれない。と、思う。

僕という人間は、できる限り対立を避けたい。

対立が生まれそうになった時は、相手の大切にしているものを、なるべく壊さずに、自分にとっても、あまりしんどくないやり方がないかを考える。

折衷ポイントというか妥協ポント、その局面を切り抜ける適切な言葉を探す。

だけど多くの場合は、そんなポイントが短時間で見つかるはずがない。長い沈黙。

結局、僕の方が譲歩することが多い。7~8割は相手の希望をかなえ、2~3割は自分の希望を差し込む感じだ。

本音を言えば、かなり無理をしているほうだと思う。だけど、それ以上に争いを避けたいという思いがあるので、つい無理をしてしまう。痛みが積もっていってしまう。

 

だまっている。というのは一つの、やさしさなのだと思っている。

本音を言うと「そんなことできないよ」とか「我慢してくれ」とか「それは駄目だ」ということになるんだけど、とてもそれは口にはできまい。

本当のことだから。と、なんでも口にしていたら、人類はたちまち争いを始め、すぐにも核戦争やらが始まって世界なんて終わってしまうだろう。人間、本音がありながらも、たてまえがあって、言葉を選んで譲歩するからこそ、なんとか上手に生きながらえているのだと思う。

沈黙は、僕が、なんとかその場を争うことなく乗り切りたいという悪あがきの時間であり、引いては世界平和を願う、ささやかな抵抗の時間なのだ。見た目はぼーっとしているようであっても、頭の中は世界平和を願い、120%で必死に動いているのである。優しく受け流して欲しい。

 

本当は明らかに欠点なんだけど、そこには触れず、いいところを探していいねと伝え、欠点を黙っていてあげる。という、やさしさもある。

僕はあまり人の欠点を指摘したりしない。

だけど、駄目なところを黙っていてあげることは、本当にやさしさなのだろうか。

痛みは伴いながらも、あえて「駄目だ」といってあげることは長い目で見ればやさしさのはずである。僕が選んでいる手段は、目先のやさしさであって、また、争いを避けるための手段であって、長い目で見れば、その人を悪くする嘘のやさしさなのかもしれない。

対立を避ける、目先の嘘は、やさしさなんてものじゃないかもしれない。

やさしさってなんだろう。ますます難しくなってきた。□