大原ロケハン その2

大原の寂光院へ向かうのどかな田舎道を歩いていると、ふと、永い間頭の中に眠っていた何かが、目覚めるような感覚があった。

 

「ここに来たことがある.....」

 

就職して間もない大昔に、父と母を京都に招待したときは、間違いなく大原に宿泊をしたのであるが、どこに泊まったのかはとんと記憶がない。

ただ、三千院の方には宿はなかったから、泊まったとしたのなら、寂光院の方だったのではないか、などと考えていた矢先。

目の前に現れた大原山荘という民宿を見たとき、脳のなかで、完全に途切れていた記憶が、繋がり当時のことが鮮明に脳裏に再現されたのだった。思い出した。間違いなく、僕はここに宿泊したのだ。

記憶喪失の患者が、記憶を取り戻すというのはこのような体感なのではないかというような、カタルシス

大原山荘の夕食は、大きな40~50畳くらいある食堂で、宿泊客全員で食べた。電子ジャーが共用でしゃもじにたくさんのごはんが張り付いていて、お替りがしにくかった。そんなことすら思い出した。

 

だけど、それならば、これから訪れる寂光院だって、覚えているはずなのだ。

だけど、そこもまた靄がかかってしまっていて、記憶が完全に欠落してしまっている。

なぜ、思い出せないのか。

 

わからないまま、たどりついた寂光院の入口で拝観料を支払い、階段を登っていく。

観たような観ていないような。それでも記憶は蘇らない。

本堂に入り、地蔵菩薩の前に座り手を合わせる。やがてスタッフが解説を始めた。

その説明を耳にしたとき、すべての謎が氷解したのだった。

 

寂光院本堂は平成12年、心ない人の放火にあい、すべてが消失しましたが、

 5年の歳月をかけてようやく今の姿に復元されたのです.....。」

 

................そうだった!!

あのとき、僕が父と母をつれ、寂光院の入口にたどりついたとき、火災のため寂光院の門は閉ざされ、拝観不能になっていたのだった。

 

これですべてを思い出した。

 

そして、今、長い時間を経て、こんなかたちで、ようやく拝観することのできた寂光院は、壇之浦の戦いで滅ぼされた平家の最後の姫君である、建礼門院徳子皇后が滅亡した平家一門と我が子安徳天皇を弔った閑居御所なのであった。

隣には宮内庁が管理する建礼門院皇后の墓所もある。皇族が最後に住まわれた場所なのである。

 

2000年の火災。かなわなかった拝観。そして、平家一門の生き残りとして、皇族として、残された余生をここですごした建礼門院皇后の想い。

こんな気持ちが一緒になり、沁み出すような、悲しい気持ちになった。

 

大原は恋につかれた女性だけではなくて、歴史のなかに生きた人々の多くの悲哀がしずかに沁み入る場所なのである。

僕はますます大原が好きになった。□