みんながノーベル賞

仕事って、孤独だよね....。




かつて市展で市長賞をいただいたとき、嬉しくって職場の同僚に伝えたのだけれど。


「ふーん、よかったじゃん」


自分の興奮と他人の興奮の温度差があまりにもかけ離れていて、軽い脳震盪を起こしたものです。


が、その後、受賞者展で市がこの絵を10万円で買い取ってくれるという話になって、これまたその同僚に伝えたのだけれど。


「えーっ!!!!!なにそれなにそれすごいすごいすごいすごいすごーい」


.....なんだ、この差は?と思ったものです。





みんな、がんばっているんだよ。


でもそれを見る人たちはそのがんばりを評価する指標を持っていないのです。


だから一般的で定量的な数値でしか価値をはかることができない。


絵画の価値が金額にかわったとたん、「すごい!」となるわけです。


今まで誰もが歯牙にもかけなかったフェンシングで銀メダル!となった刹那、大騒ぎになる。


なんだか、あさましいな。と思いながらも、でも、これが社会の目というものなのです。




職場を見渡すと、優秀な人にあふれている。


日々多くの手柄を立て、信頼に応え、その周りにいる僕たちはその業績に喝采する。


だが、それが職場を出てみると、とたんにその仕事は「ナンダソレ」になる。


だれしもその業績の大きさを見る指標を持たない。


例えば、もっとも身近な家族ですら旦那が何をしている人か、どれだけすごい仕事をしているか、を理解どころか認知すらできない。


職場ではスーパーマンの彼らも、会社の門を出た途端、ただのおっさんに戻ってしまうのである。


しかも仕事には社秘義務もあるから、そうそう仕事のことを口に出すことすら、許されないのである。



仕事とは孤独なものだ。



本当に知ってほしい大切な人であるほど、その仕事がなんたるか、すら理解しえないのだ。



このたびのノーベル物理学賞の受賞の華やかさに対し、先生方の家族に向けられたマイク。


「お父さんが何をやっているかすら知りませんでした」


肉親ですらこのありさまなのです。





実は僕らの隣人たちは皆、すごいのかもしれない。


隣人のほんとうの業績を理解する機会やリテラシーが欠落していて、そのすごさを見逃しているのかもしれない。


あるいは、ただほんのちょっとした微差でスポットライトがはずれいているだけなのかもしれない。




このほんの、奇跡のようなちょっとした差、ほとんどの人が気づきもしえないこの微かな差で、世界が認めるスポットライトと、ただのおっさんとなるほどの大きな差が生まれているのではないか。


でも、その微差をそれでも詰めていこうとする信念の先にノーベル賞があるとして、それを詰めなかったとしてもすごいものはやっぱりすごいのではないだろうか。


そんなこだわりを捨て去ってしまってふと周りをみてみたら、実はみんながみんなノーベル賞だったのかもしれない。




僕らの隣人は、みんないつでもノーベル賞なのかもしれない。




賞がどうとか、そういうのは後でいい。とにかくいい仕事をきっちりしていきたい。そんなことを願った。□