アーチストの柔軟性

かつてベン・シャーンの展覧会を見たとき、

 

「なんて柔軟なアーチストなんだ」

 

と思ったことが今も記憶に焼き付いている。

 

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開放

氏は多くの写真を撮り、風刺的な絵画を多く残した。

 時代がすすむとグラフィックデザイナーとして、ジャズレコードのジャケットやポスターといった仕事を次々とこなしていった。

氏は、自分の表現手段を守りつつ、移り変わっていく時代と社会に、自らのスタイルを柔軟に変え、合わせて、表現の内容を順応させていった。

これは簡単なようでいて、なかなかできることではない。

東日本大震災が起こったとき、震災を絵画に描いた輩がいた。それは強烈なインパクトやメッセージをもった絵であるには違いなかったが、では次に何を描くか。と問いかけられてみると、すでに抜け殻になっていたりする。
偶然起こった社会的な事件をモチーフにしてみても、次の事件がなければ何も描けない、では意味がない。モチーフがある時でもない時でも、常に、自分の中から内発的に発信できるものがないと、表現活動は続けていけないのである。

 

先日、作曲家の筒美京平氏が亡くなった。

氏が作曲された楽曲をざっと振り返ってみて驚愕する。

 

本当にこれらすべての楽曲を、ひとりの人間が手掛けたものなのか!?

 

石田あゆみの「ブルーライトヨコハマ」、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、ジュデイ・オングの「魅せられて」....という昭和歌謡を代表する屈指の名曲たちに加え、時代が進んで、近藤真彦の「スニーカーぶるーす」、田原俊彦の「抱きしめてTONIGHT」、さらに進んで、NOKKOの「人魚」、TOIKIOの「AMBITIOS JAPAN!」....さらに「サザエさん」まで....!

氏が作曲した曲は、ざっとみて3000曲にも及んだという。

 

昭和の経済成長期から、経済の成熟した80年代のタレント全盛期、90年代の平成から、そして2000年を経て令和まで。

次々と移り変わっていく時代と世の中のニーズに合わせ、柔軟に表現内容を変えながら、ヒット曲を作り続ける。

阿久悠氏の作詞もしかりだが、筒美京平氏の作曲には舌を巻く。昭和という時代には全くとんでもない怪物がいたものである。

 

今や時代は成熟して、ネットやツールがあふれ、誰もが表現を手軽に行えるようになり、当時のように時代を代表するアーチストとして名を残すのは難しい時代になったかもしれないが、すごい人はどの時代にもいるはずだ。

時代や、やり方にしばられず、常にしなやかに、やわらかく、氏を見習い、表現を続けていきたいものだと思う。□