制作日記

 

エスキース」は、ほどほどでやめるのがいいかもしれない。

 

否、やめるべきだ。

 

多大な時間をかけて100%のエスキースを作り上げたとしても、そのエスキースをもとに制作を始めてみると、早速「何か変だ」「おかしい」となる。初っ端からエスキースどおりにはいかなくなる。

一体、100%までもっていったあの苦しみは何だったのか。

 

エスキースで100%まで作り込むよりも、画面の上で、最適な構成を探しながら、モチーフを動かしていく方が、無駄な苦しみや時間も取られず、自分にとってもやりやすいし、どんなものができあがるか楽しみにもなる。

 

エスキース」とは「かたち」である。

最近、「かたち」で絵を面白くしようとすることをやめたいと思い始めている。面白くなるまで「かたち」をひねることは、捏造やあざとさが知らず知らずのうちに入り込んでくる。

「かたち」としては、至ってシンプルな「ただの四角形」で切り上げても、「画肌」や「色」で面白さを描けるのではないか、という仮説を立てている。

描きたいのは「空気」である。どんなかたちであっても、どんなモチーフであっても、どんな手段であっても、空気さえ描ければいい。

 

突き詰めていくと、その先には「かたち」が一切無くなった抽象絵画となるのだが、抽象絵画まで突き抜けたいとも思っていない。

やっぱり手で描きたい。絵の中のどこかにインプットとなったもの、モチーフの属性は残したいのである。

 

抽象性が表す平面と、具象性が表す詩情を、同じ画面の上に展開できないか。

 

詩情と平面の共存。それは画肌、色、かたちが絶妙なバランスでそれぞれが出すぎず、引き過ぎず、同じ画面の中に調和しなくてはいけない。そのバランスを探すのがこれからの自分の命題である。もしかしたらライフワークになるかもしれない。

 

料理で言えば、仕上げの最後の最後に入れる塩加減。

ひとつまみか、ふたつまみか。そのような微妙な調整でありながら、完成度に圧倒的な差がうまれるような絶妙なポイントをついた作品。目指すのはそいう境地である。□