「時代」のひとことで片付けてよいものか。

 

「時代の移り変わりもあり、年賀状は今年限りで失礼させていただくことと致しました」

 

2022年の正月。こんな文面の年賀状を、数枚受け取った。

どれもがほぼ同じような文面なので、おそらく、ネットにでもあった「相手に失礼のない」とされる文面を引用したのだろう。

それがネットにあったということは、そういうことを考えている人が多いことを受けて用意された文面だと思うので、「年賀状の時代」の終わりが近いことを象徴しているように感じた。

 

確かに、ここ数年いただいた年賀状を振り返ってみると、「形式的な挨拶」を印刷した「挨拶状」としての役割のみに徹した年賀状や、もらってしまったから、申し訳ないという「返事」に徹した年賀状などがあって、そんな年賀状からは機会があればやめたいというオーラが滲み出していた。

 

紅白歌合戦が終わり、ゆく年くる年を眺めているうちに元日の0:00を迎えるが、その瞬間、LINEやらSNSで「あけおめ~」などという挨拶が飛び交っている。

年賀状を送っている自分も、友人・知人らに0:00の瞬間にそんなメッセージを送ったりしていて、「ああ、年賀状が届く前にあいさつが終わってしまったぜ」なんていうことを、思っていたりもしたのである。だけど「年賀状をやめます」という発想はあまりなかった。

 

確かに「時代の移り変わり」なのであろう。

 

だが、なんだろう。この寂莫とした気持ちは?

 

年賀状と言うものは、物心ついたときから当たり前のように存在していて、自分にとっては、もう「日本の文化」であると、理屈抜きに焼き込まれていた。

なので、その終わりを宣言されたときには「それって、終わるものなの?」という気持ちでちょっとしたショックを受けたのである。

言い換えれば「今日から日本では神社を廃止します」と宣言されたような気持である。

 

正月に遠距離にいる友人・知人に挨拶に行けないことを、年賀状というお便りで代用していたという時代が確かにあった。

でもネットが普及した今となってはそんな「不自由」は古くなって、距離なんてネットがあれば一瞬で伝えられる。わざわざはがきを買ってきて、手間をかけて挨拶をしたため、配達まで2~3日も時間のかかるものをポストに投函するということは、面倒なわりにおそすぎるのだろう。その理屈はわかる。わかるのだが。

 

でも、やっぱり、寂しいのである。

極端にいえば、ある一つの「死」を受け入れたような気持ちなのである。見知った芸能人や知人が亡くなることにならぶ現象のように受け止めてしまう。

 

京都アニメーションの「バイオレットエヴァーガーデン」は、文字を書けない人がいるような時代に、手紙を代筆する事業があり、手紙だからこそ伝わるぬくもりをテーマにした作品である。

この作品が伝えたぬくもりは、時代だからということで消えるものでもないと思うのです。

絵画という面倒な表現スタイルも、古いものになっていくのかもしれない。

だけど、人間が手を使って書いた文字や絵には、その人しか出せえない、においが必ずあるのである。

時代錯誤かもしれないが、最後の一人が消えるまで。年賀状は続けていきたいものだ。□