「宿坊」というシステムを知らなかった。
実際にお寺に宿泊して、修行するお坊さんたちと
ほぼ同じような体験をするようなものと思っていたのだが、違った。
現在、高野山にならぶ117の寺のうち50程度が「宿坊」というシステムで、
外部からの宿泊客を受け入れているようだ。
すごい料理や温泉でもてなしてくれるような一般的な旅館とは異なり、
食事は肉や魚がない精進料理だし、トイレや洗面所は共同であるなど
極めて質素なスタイルの宿なのである。
眠る部屋のない暮らし。
着るもののない暮らし。
食べ物のない暮らし。
電気のない暮らし。
そんな暮らしには今からはなかなか戻れないけれど、
どこかで、たまにはそういう空間や時間に身を置いて、
ふだんのありがたみを噛みしめたり、振り返ったりなど、
してみたくなる。
それは屋根や電気、ガスのない場所に出かけても
キャンプをしてみたい。という気持ちに似ている。
宿坊は、お坊さんたちのような修行をすることはないが、
寺という空間で一晩を過ごす中で、
ふだんの自分を見つめなおす機会を提供してくれているシステムなのだ。
精進料理は、特別美味しいというわけでもない。
そして、ボリュームもないのですぐお腹がすく。
でも、それを頂いたときに、体のどこかで、ほっとしている。
無いのだけれども、そのぶん、
無いという状態の中に有る「なにか」を手に入れる。
そのために、宿坊というシステムに自分を置いたのである。
ここに多くの人が忘れかけているけれど、思い出したい「不便益」のエッセンスが隠れているのかもしれない。□