「育児図」について

 

昨年10月に準会員推挙となった。

ほぼ同時期に子供が誕生した。

 

世界が一変して、余暇の時間のほぼすべてを家事・育児に当てなくてはならなくなった。

モノの少なかったリビングは、生活雑貨やら、汚れたおむつやら、おもちゃやらで埋め尽くされた。

外出など個人の行動は、極限まで制限され、描くための取材は一切できない。

そもそも、描く時間さえ確保できないような忙殺。

 

それでも、準会員推挙を承った以上、作品を落とすことはできない(しかも初回からなんて)。

なんとか新作を描き出さなくてはと思い悩んだ末、家の中ならいつでも取材できる、育児の今を描いたれ。と「育児図」に着手した。

 

ふりかえれば、育児の絵画なんてものをとんと見ない。

こんなときに描こうなんて思う人間は、世界中どこに探してもいないだろう。

だって、ほんとうにめちゃくちゃ忙しいから。

で、育児期が過ぎてしまえば、きつかった時間というものは、記憶の彼方に飛んでしまうから、後からその苦しい時期を振り返って、描こうなんて思う人間もいない(いわさきちひろのようなスーパーウーマンもいるが、あれは別格)。

そういう意味では誰も描いていない、素晴らしいモチーフだとは思っている。

 

育児は、かつて体験したことのない、光と闇の圧倒的なコントラストだ。

行く先々で祝福を受け、ショッピングに行けば、誰もが微笑み、モーゼの十戒のように道を開けてくれる。赤ん坊が世界に放つ神々しい光に驚嘆する。

対し、その裏にいる親は、完全に黒子であり、闇の中にいる。

その苦しみは多くの人には、見えず、見えたとしても他人事や、喜劇でしかない。

 

そんな水と油の天国と地獄が、奇跡的にごちゃまぜになっている育児という「今」をアーカイブしておこうかと思った。

外は雲一つない青天の、刑務所の中。物音ひとつ許されない破傷風の治療病棟。外は平和のはずの防空壕の中、まるで横井ケーブ。

それでいて、手には巨大な金の延べ棒が握られている。

 

地獄観をもっと出したい。見る人に、この状況を疑似的にでも感じられる作品にしたい。

 

もしかしたら一枚にアーカイブするのは無理かもしれない。

藤田嗣治のライオンのいる構図みたいに2作品にわけて描くべきか。□