愛用のビールグラスが割れた。
丁度4年前に丹波篠山を訪れた時に手に入れた、お気に入りのビールグラスだった。
手に入れた時に、いつかは壊れるものだ。という「覚悟」はしているつもりだった。
が、
朝目が覚め、ついに起こってしまったその事態を耳にしたとき。
「仕方がないよ。いつかは壊れるものだから」
いつかくるその事態のために用意していた通りの言葉を、
口先から出すことまではできたが、心はそのショックについて来られなかった。
果てしなく落ち込んだ。
こんなに落ち込むのか、と自分でも驚くほどに。
いうなれば、たかがモノである。
これがもし、肉親や大切なペットといった生あるものを喪失するような悲しみだったとしたら、たかがモノに何を落ち込んでいるのだ、お前はなんと生やさしい野郎なんだと、尻を蹴られるだろう。
その日は午後から百貨店に出かけたが、そこで失ったビールグラスに置き換わるグラスを早くも探している自分がいた。
人というのは、心に空いた穴を埋めるために、すぐにでも何か代用のもので埋めようとする気持ちが働くのだということを体感する。
「タンブラーみたいな壊れないグラスにしたら?」
そう提案する細君に、無意識に返した言葉。
「壊れるから、いいんだよ」
とっさのひとことではあった。
だが、自分の発言したこの一言に、
我れながら「はっ」とした。
この発言は、自分の生き方や美学を的確に象徴していた。
世の中には、より便利で、すぐれたモノは一杯あるのだろう。
では、ガラスは壊れやすいから無用なモノとなるのか。
そうはならない。
むしろ、壊れてしまうからこそ、
儚さや健気さと、緊張を兼ね備えた、愛おしい道具となるのだと思う□