桜は毎年あれだけ綺麗に咲くのに、「賞」を受賞することなんてない。
彼らは、生きる過程の中で自分たちにとって必要だから咲いているのであり、何かの見返りを求めて咲いているわけではない。それがまた、謙虚で美しく感じられる。
偉そうなことを書くつもりはないのだが、
自分にとって描くことも、桜の咲き方に近い。
毎年発表の時期が来たら描くだけだ。
頭の中にあるイメージにどれだけ近づけたか。
未だ形になっていない「理想の姿」に向かって、1年に1回、ほんのわずかでも前進(あるいは後退)を自分の中で確認して、また来年への目標にする。その繰り返しをしているだけだ。
賞を、描くことの目的や目標にしたことはない。
だが、このたび賞をいただけた、と連絡を受けたとき、
じわっと喜びが滲み出してきたことを体感した。
改めて思うが、賞を欲しいと思ったことはない。
ただ、この1年間、自分が、世界から見えない奥の場所に引き込み、家事、育児(そして業務)に埋没する日々を送る中で、自分の存在が世界から完全に忘れ去られてしまっているような、置いてけぼりにされているような不安や焦燥感がずっとあった。
このたびの賞は、そんな不安を一部ではあるけれど、取り去ってくれたものだった。
あ、自分はまだ世界から存在を認められている。
その確認をとれたことが、喜びという形で体感されたのだ。
それが別に賞という形でなくてもよかったのだと今でも思う。
今回の作品は、出品前の6月時点でも自分で思っている以上の高い評価を戴いていたが、自分にとっては、ただ出せただけで奇跡。というくらいの状態であった。
作品として整えたり、吟味する間もなく「出しっぱなし」のような状態で押し出すしかなかったのだが、どうやらそれが、見る側にとっては、面白かったらしい。
年配の方が卒業して、若い人もなかなか根付いていかず、組織が日に日に痩せていく時代だ。
組織としても、誰かを広告塔にでも仕立て上げて、持ち上げて、全体に発破をかけたいのだろう。それは別に自分の作品でなくてもいいのだろう。と、そんな風に思っていた。
だからこのたびの受賞も、偶然の代表として選ばれただけだろうと受け取っていた。
それより、ただ「自分が忘れられていない」というところを、有難く受け取っていたのだけど、このたび六本木で行われた美術研究会で、自分の作品を取り上げてもらい、複数の先生方からもなかなかの高評価をいただけたとき、あ、これってあながち作品としてもおかしなものではなかったのだな、と今更に思えてきた。
「これをはげみにしてがんばります」なんていう月並みな言葉だけど、本当にそういう気持ちになりました。□