AIによる育児日記の続き(PM編)を書かせてみた。
午後
昼までの時間を埋めることも、なかなか容易ではない。
テレビはすぐに飽きてしまう。
すぐに飽きてこっちへ来てと腕を引っ張ってくる。
考えてみれば当たり前だ。子どもは大人がやっていることに興味を持つ。
俺がスケッチブックにペンを走らせていれば、彼女も同じノートを欲しがる。
つまり、娘がテレビをそれほど求めないのは、俺がほとんどテレビを見ないからだ。
(というか見たいのだがテレビを見る時間が無い。ハードディスクレコーダーにはいつか見たいと思って録画した映画やらアニメやらがもはや消化不可能というレベルで積もっており、いつか合掌しながら消去することになるのだ)
PCを立ち上げ、AIにブログの文章を書かせている間も、膝の上に小さな体がよじ登ってくる。「だっこ!」「本読んで」――要求は途切れることがない。
家事が片付いたところで、目を離せない存在が横にいる。
気づけば、半日の時間が音もなく溶けて消えていく。
ただ体力が消耗して、疲労感に溢れるが、いつも「今日一体何をしていたのだ」と自分に問いかけても、何かしたという手ごたえは、ない。
自分でコントロールできない存在と長い時間共に過ごすということ。
それは、膨大なエネルギーを必要とする。
専業主婦の妻に「頼んだ」と軽く手を振ってすべてを任せ、
週末の数時間程度、赤ん坊をあやしている程度のおやじには、
この大変さは永遠にわからない。週末に不機嫌をため込んでいる専業主婦の大変な気持ちが、今や染み入るように体に溶け込んでいる。
大人なら10分で終わる食事に1時間。口に入れたはずの食べ物を出し、投げ、散らかしす。
絵本を読む。レゴを積む。積んでは崩され、また積み直す。
そうして気がつけば、ようやう昼食の時間。
朝食と同じく、想定通りには進まない。
昼食を整えながら、ふと気づく。
そういえば髭を剃り忘れていた。
思い返せば、きっちり髭を剃る習慣など、もうどこかへ消えてしまった。
Tシャツは二枚を交互に洗って着る日々。
服選びに費やす余裕など、とうに失っている。
魚のフライを口に運んでも、エプロンへ吐き戻される。
白米だけを食べ続けても栄養にならないから、スープや海苔、チーズで補おうと試みる。昼食の時間もまた、長く、消耗する戦いだ。
13時半。ようやく昼寝をしてくれた。
小さな胸が規則正しく上下し、部屋に静寂が訪れる。この瞬間が、わずかな自由の始まりだ。
眠りが深ければ、停滞していた絵を進められるかもしれない。
録画していた番組を、ほんの少しだけでも観られるかもしれない。
だが希望は脆い。数十分と経たないうちに、また目を覚まし100%充電完了してフルパワーになった赤ん坊が再起動をする。21:00に夜の眠りにつくまで、また同じ時間が繰り返される。今日も結局、やりたいことはほとんどできない。
娘が寝静まった深夜、わずかな時間を切り取り、筆を握る。
それは睡眠時間を削ることと同義であり、翌朝6時半、いつものようにる次の日の育児には確実に跳ね返ってくる。
それでも制作をやめることはない。
描くことは、自分の生きる理由の一つだからだ。止まってしまえば死ぬのと同じ。――そんな確信すらある。
だがその前に、健康を崩して死んでしまえば身もふたもない。毎日、心のどこかで「早く眠りたい」「朝をゆっくり迎えたい」と思う。けれど、それが叶うのはおそらく本当に死ぬときだけだろう。
ニュースで芸能人の訃報を目にし、「おつかれさまでした」という言葉を見るたびに思う。あれは死者への挨拶ではなく、「ようやく休めましたね」という意味なのかもしれない、と。みんな、大変なんだ。目には見えないけれど。
キャシアン・アンドーの生きざまを観て、ふと考える。
もちろん、あれほど自分の人生は過酷ではない。
だが、精神を削られる大変さを比べてみれば、大差はないのではないか。などと考えながら、彼の生きざまを眺めている。
社会は育児に理解を示しているはずだ。それでも、これほど育児は大変なのである。
楽しいことが溢れている世の中で、子を育てようとする人が減る理由――たぶん金銭的な問題だけでは説明できないのだろう。
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