今年も喪中のはがきが何枚か届いている。
絵描き仲間である先輩から
奥さんの義父が亡くなったとの、はがきが届いた。
数年前から介護をしていて、妻の介護に付き添うため、
東京と大阪を半月ごとに行ったり来たりしていると聞いていた。
相談事などで会う約束をするときも「今、東京なので不可」と
何度か返信をもらったりもしていた。
今届いた喪中のはがきから、
先輩のそんな介護の日々が終わったのだな、と汲み取った。
先輩は来年以降は大阪に戻るのだろう。
彼以外からも、何枚か喪中はがきは来ていたが、
「喪中である」という情報を受け取る以上、
個人的に何かを想うことはあまりない。
だけど、改めて考えてみると、
このたび東京と大阪を長い間何度も往復して介護をしていたというご苦労をされていた先輩と同じように、他の方の誰もが裏では、はがき一枚では届けきれない、大変なご苦労をされているはずである。そういう想像力を無意識に放棄していた自分が、「俺の育児の苦しみを知れ」とネットで吠えているのは、なんだか人間的に足りないなと思ってしまった。
改めて、映画「関心領域」を思い出してしまうのだ。
人間の誰もが持つ「無関心という名の暴力」。
どうしようもないのだけど、ちょっと落ち込むこともある。□
追伸。
もうちょっと書くと、喪中はがきを送る側についても、
身内の不幸を、さも痛かったかのように騒ぎ立てず、
静かに一言だけそっと伝える。というようなやり方とか、
他にも「負けて勝つ」とか、
そんなことが日本人の美学というか戒めとして、
体にやきついてきているように思うのだが、
自分はもうかっこをつけるのはやめようと思っている。
苦しいことを苦しいといって何が悪い。という開き直りである。
育児の苦しみや痛みを、誰にも話さず、話せずぐっとこらえて、
身を滅ぼしていたら美学どころか、ただの馬鹿だと思う。
見やすいように、わかりやすいように、気持ちが良いように、
整理したコンテンツはそれは気持ちが良いのだろうが、
観たくも無いもの、聞きたくも無いものも含めて、
フィルタせずにあるがままに噴出させる、噴出できるのが
アートだとも思う。