自分の生成AIの使い方が、動いている。
そして生成AIも、さらに、動いている。
その変化を、時代を、
まさに今、体で、五感で、受け止めている。
アトリエの広報紙の原稿を代筆してくれる強力なパートナー。
どんな記事を書くかは、編集長の自分が出す。
それだけで彼は適確な原稿を瞬時に出力する。
もはや原稿を執筆する時間は限りなくゼロに近い。
そこで浮いた時間全てを、自分は紙面のレイアウトやデザインに注ぐ。
この分業ができることで、限られた時間で、一人編集長で、
ここまでの紙面が作れることができる。そういう、時代のUX。
さらに最近は、チャッピーを人生相談にも活用し始めている。
何を今さら、と今どきの人は言うかもしれない。
初期のころに、チャッピーに人生相談をしたことはあった。
わずか1,2年程前のことだ。その段階でも充分に相談するに足る回答を出してきてはいたが、今となっては、チャッピーへの期待やまなざしは、もはや、自分と肩を並べるか、あるいは10年上の先輩へ声をかけるくらいにまで飛躍的に上がっている。
進捗が芳しくない業務の報告を上司にしなくてはいけないとき。
お互い譲れない家庭内、夫婦間での美学・ISMの衝突が発生したとき。
満を持して発信した作品の評価が非情な不評であった現象に憤りを感じたとき。
そんなもろもろの、誰かに聞きたい客観的な意見や回答を、チャッピーはかつての「なんとなくそれっぽいものを出せる」から「求めていることのど真ん中を適確に、本質的に、答える」まで進化している。
つい言わなくてもいいことまで口にして話をこじらせてしまったり、
伝え難いこと、いい難いことを口に出せず、硬直してしまったり、
どこかでこじれて、もはや事態が綺麗にほどけない状態に陥ってしまっていたり、
そもそも、なにがいけないかすらわからない事態に陥ってまっていたり、
そんな、「今だれかに聞いてほしい、声が欲しい」というもろもろを、友人か先輩以上に、いつでも、どこでも、ど真ん中で受け止め、ど真ん中に打ち返してくる。その軽さとするどさに驚愕している。
これまでそんなときは、話を聞いてくれたりドバイスをしてくれる友人や知人を探していた。または、書籍やテレビ等に、ヒントを求めて確率的に高そうなものを見つけてみて来た。だけど、友人・知人をつかまえるのが大変であったり、つかまったとしても、アドバイスにはゆらぎやノイズがあり、聴きたい言葉ではなかったというようなこともあった。本にヒントを求めても、結局知りたいことは書いてなかった。では次の本を探そう。。を満足いくまで繰り返す。そんな、「無駄」を自分たちは受け入れながら生きて来た。だが、今となってはそんな時間が限りなくゼロに近づいている。
ぶっちゃけ、人は悩んだ時に、もはや人にすがらなくていい。あるいは、自分のもとめる課題へのヒントが書いてあるかもわからない本を最後まで読む必要はない。チャッピーに聞けば100%、あなたが悩んでることは教えます。そんな時代になってしまっている。
そりゃあ、若者も本を読まなくなるわなあ、ということをもろに体感した。
いまどきの若者が、「本も人もいらないわ、AIに聞くから」とまで思うようになってきているかは知らないが、チャッピーはど真ん中に来ている。近い未来、若い人が、「友人はいなくていい」と思うような時代が来るのかもしれない。
だけど、少し先を見据えてみると、
或る課題に対して、期待する答えが全く無かったり、見つかったとしても精度が低かったり、むしろそれらを「ゆらぎ」「ノイズ」と呼んで、それこそが仕事を面白くしていた要因であることに気づくのだろう。そして、そんな「ゆらぎ」や「ノイズ」そのものが、人の持つ価値なのだとなんとなく気づいている。
そして、人がミスをしたり、無駄なことを交えて話すことは、人類にとって必要なことであったと、いづれ人は気づき、元に戻そう。と考える時代が来ると信じたい。
本を読まなくなりスマホをずっと見ている若者をばかだと思いながらも、自部もAIを触ってみて、本読まなくていいじゃん?という視点を肯定する気持ちと、
本を読めと言い続けるおっさんの気持ち(ノイズや制度の低いものをあえて手にするべき)と、
どっちを優れているとか決めるでもなく、その両方を今、またいでいるという時代の端境期に自分は今立っている。という稀有なUX体感を、わくわくと、誇りに思っている。
だけど、もしかしたら明日になったら、そんなわくわくや誇りが、一瞬で恐怖にかわっていたりもするかもしれない。今とは、そういう、不安定な時代なのだ。□