良い作品

良い作品ってのは、

「ボクもやってみようかな」と思わせておいて、

「やっぱり絶対にできない」と気づかせるもの。

だと思う。

藤田嗣治作品のあの白。

やってみようかな。と思う人はきっとたくさん
いるのだろう(ボクもそのひとり)。

でも今なお、誰ひとり真似できている人はいないもんね。

そこまで磨き上げてはじめてプロフェッショナルなんだね。□

源泉

仕事がのってきているときに限って、その後に予定が入っていたりする。

これほど調子がいいのは久しぶりだ。もうちょっと描きたい。でも予定が入っているから........と筆をおき、断腸の思いで外へ出る。
何故こんなときに限って予定を入れてしまったのだ.......!と嘆いてみたりもする。


でも、ちがうんですよね。


「仕事がのっているときに予定が入っている」のではなくて、
「予定が入っているから、仕事がのってきた」のです。

予定が入っている。時間は無い。追い詰められている。だからこそがんばろう。なんとかしよう。と取り組んで調子があがっていくのです。
もし予定が無かったら、きっとぐだぐだ、だらだらと仕事を続けて、結局「今日はだめだった~」なんてことになったりするのです。

これまでさんざん「締切」には苦しんで生きてきました。
だけど締切がなかったら、絶対に仕事を終えられなかったことを、身体が知っている。

 

関西二紀展の制作がようやく終わりました。

5月の休み明けに、まっさらなキャンバスからスタートして20数日。かつてない短期間でありながら、なんとか完成させることが出来ました。
でも今日、制作中にできていなかった他の仕事をやるつもりでいたのだけど、結局なんにもできなかった。いったい何をしていたのだろうかと思うくらい、時間は空虚に流れて終わりました。

締切がなくなったとたん、もうこの様です。

追い詰められているときに限って、他にやりたいことがあふれだしてくる。
でもこれも、追い詰められているからこそ、あふれてくるのだと思います。

これまでずっと締切というものを自分を苦しめるもの。追い詰めるもの。と紐付けていたけれど、そうじゃない。
「締切」こそが創造の「源泉」なんです。
これまで締切は「終わりを告げるもの」と思い込んできました。自分も締切にひきずられていたように思います。追い詰められた果てに、妥協もたくさんありました。
でも、これからは「締切」を「創造のはじまり」「源泉」ととらえてみたいと思っています。
今後、少しずつ作品も、作品に対するアプローチもいい方向に変わるかも知れません。

 

関西二紀展は6/19~24に大阪市美術館で開催。
「源泉」から出たものを是非観に来てください。□

新しいやり方

日大アメフト悪質タックル事件が連日テレビを騒がせている。

体罰問題が連日報道される時代になりました。
体罰をした教育側は、つるし上げられて社会復帰できないほどの糾弾や処分を受けています。
世の中の教育機関はすっかりこれまでのストイックな指導方針を見直さざるをえない形になりました。

僕の幼少のころは、体罰はふつうでした。
中学生のころ、もともと音楽室だった僕の教室には、すみにピアノが置かれていました。
ホームルーム前に友達とピアノを弾いて遊んでいたとき、担任が入ってきて「今ピアノを触っていた奴ら、前へ出ろ」と一列に並ばされて、ビンタを喰らいました。そんな毎日でした。
野球部の友人は、練習中に水を飲むことを禁じられ、吐くまで走らされたという話も聞きました。
こんなことはもう許されない時代になったのですね。

でも僕は、あのころ受けた体罰というものは、ありがたかったな。と感じることがあるのです。
もちろん僕も、体罰には賛成しません。
でも「必要最小限の体罰」はときには必要なことがあると思います。
親からも先生からもたたかれたことのない少年が、体での痛みを知らずに大人になり、つい包丁で友人をさしてしまった。実験してみたかった。なんて事件もあります。
モラルの常識的な境界を覚えるのに、体を通じて覚えるという手段はあってもよいかと思うのです。

スポーツの指導についても同様です。過剰なのは論外ですが、ある程度の厳しさはあってもいいと思います。
僕は絵を描いていますが、ある程度の質まで作品や仕事の成果を高めるためには、常識を越えた緊張の中でがんばらなくてはいけない。一人でその境地までもっていける人もいるかもしれないけれど、多くは指導者がいて、はりつめた空気で外的なプレッシャーを作り、追い込んで磨き込みを行ったりします。
「いいねいいね。はいよくできました~」という環境で、これまでの先輩方が残してこられた素晴らしい成果につづく、とがった仕事や作品をぼくらは出していけるのか。不安を感じます。

時代なんだね。
でも環境は変わっても人間は人間だから、時代に関係なく、やる人はやるんだろうね。
新しい環境で自己をストイックに研鑽する新しい手段をみつけだしていくのだろう。そう願い、期待したい。

働き方、指導の仕方。世界の変化を受け入れ、僕らはいつも新しいやり方を考えていかないといけないのだろうな。

 

今こそ、映画「セッション」はみんなに見てもらいたいなぁ。すごすぎて笑ってしまった。狂気の足りないぼくには、むしろ憧れすら感じてしまいました。□

マインクラフト

よゐこの有野&浜口がマインクラフトに挑戦。
という動画が公開されている。
よゐこのマイクラでサバイバル生活」。
これがおもしろい。毎晩1話ずつ観るのが日課であり楽しみになっている。

 

 

ゲームをしたい。と思いながらも、ほとんどできず、買ったゲームですら放置してしまう昨今。こんなふうになってしまって、どれくらいになるだろう。
いろいろなものに手を出したいのに、いろいろなものに手を出す時間がなくなってきて、いろいろなものへの未練を断たざるをえなくなってきている。
僕以外にもそんな人間は多いのかもしれない。
ゲームセンターCX有野課長が、多くのファミっ子(死語)がかつて断念したレトロゲームに徹夜で挑戦してクリアしていく姿でセンセーションを巻き起こしたのは、そういう時間のない人間の心の声に応えたからではないだろうか。

ゲームをやりたい、けれどできない。という気持ちの果てに僕などはもう「誰でもいいから代わりにクリアしてほしい」になっている。
コンテンツ過多+時間過少。の果てにあるものは「誰か代わりにやってくれ」になるのだな。
有野課長が20年に亘り、こつこつと切り開いてきた「挑戦シリーズ」は、「マイクラでサバイバル」に転じ、またメーカー自らが多くの芸能人を起用して自社ゲームのプロモーション手段として、展開するにまで波及した。
僕はこんな波にのり、多くの願いをアウトソーシングして、代わりのきかない自分だけの仕事にさらに埋没するようになっていくのです。
絶対ノーマルモードでクリアする。と誓っていたのに、イージーモードになり下がり、さらにイージーどころか、他人にクリアする姿を依存してしまう、というところまで落ちぶれてしまいました........。

でもマインクラフトはやってみたいと思いました。
今度SWITCH版買います!「イグ国宝・増田城」作るぜえ。www

 

それにしても、有野コースターはびっくりしたなぁ。動画是非見てください。□

太陽の塔、インサイド。

 

太陽の塔の内部を見学してまいりました。

 

このたび太陽の塔の内部一般公開が実現したことについて、
僕がもっとも魅力を感じたのは、
「長い間ほったらかしにされていた芸術が再生されて現代に蘇った」
というところにあります。


大阪万博が開催されたのは1970年。もう50年ほどの前になります。
その跡地は現在、万博記念公園と呼ばれるのどかな公園となっているわけですが、太陽の塔だけは壊されずに、当時のまま残されました。
そして、その内部については、ほとんど誰の手もいれられることもなく、誰の目にふれることもなく、50年間放置され、眠り続けていたわけです。
「わが太陽の塔は必ず未来永劫、生き残る」という岡本太郎氏の圧倒的な強い思念があったのだろうと思います。
渋谷駅にある「明日の神話」もしかり。
メキシコのどこかに放置され、誰もが忘れてしまっていた高さ5メートル、幅30メートルの巨大壁画です。
明日の神話」についても、時代を経て誰かがそれを見つけ、掘り起こして、あらためて人の目に触れる形に再生され、僕らの前に出現しました。渋谷駅に設置され、いつでもその威風堂々たる姿をみることができます。

岡本太郎の芸術には、活火山のマグマのようなチカラを感じる。
活動を休止してふだんはおだやかに見える活火山も、見えないところでずっと活動を続けていて、突如、全てを忘れた者たちに、まるで激をとばすかのように大噴火をしてみせる。
岡本太郎氏の作品は、作家本人が生きているかどうかに関係なく、いつでも予想のできない爆発をする力を永続的に溜め続け、持ち続けているように思う。
たとえ、その作品がごみの中に埋もれていたとしても、必ず誰かを引き寄せて、いつでもスポットライトを向けさせ、世間の目を集めるようなチカラをもっているように思う。琳派のバトンリレーのように。
作品と共に永遠に生き続ける。それが岡本太郎氏だと思う。

太陽の塔の内部は、本当に素晴らしかった。
50年間放置され朽ち果てかけた「生命の樹」にとりつけられたブロントサウルスやゴリラのオブジェの一部は、当時動いていたとされるままに展示されていた。当時彼らが元気に動いていた姿をほうふつとさせながら今、新しくよみがえった「生命の樹木」にシンクロさせながら楽しく見学することができた。
多くのオブジェは新しく再生されていたが、当時をそのまま見せてくれたことで50年の時間を、懐かしく、誇らしく、かつ永遠のように感じることが出来た。
残念だったのは、まだまだゆっくり見たいのに、見学コースにスタッフが常駐していて、次へ次へと強制的に見学を急がせることだ。
団体観光客の混雑緩和のために、説明員を配置しているのだろう。でももっとゆっくり飽きるほどに見せてほしい。今は人気が爆発しているから仕方ないけれど、数年たてば、自由見学も許してくれるようになるだろうか。
なにはともあれ、太陽の塔、内部は必見です!予約は数か月先までうまっているみたいですが。是非一度は見てもらいたいと思います。

 

最上階の太陽の塔の「手」の内側は必見!絶対ラスボスいるわ、あそこ(笑)。□

 

f:id:massy:20180603155044j:plain

f:id:massy:20180603150800j:plain

ルーティンコース

大きな街を歩くときには、ルーティンコースがある。

 

時間がたくさんあったころは、何の目的もなく街にでて、何の目的もなく街を歩いたけれど、だんだんと時間が無くなってくると、確たる目的をもって街に出るようになり、目的を済ませたらすぐに帰るという歩き方をするようになってきた。
自然とルーティンコースができた。
画材屋を眺め、紀伊国屋Book1stとBookStandをはしごして、ヨドバシカメラのガチャポンコーナーで遊んで帰る。そんなものだ。(すっかり子供)

そんなお決まりのルーティンコースも、ときおり大きく変貌を遂げたり、コースが追加されたりする。
以前、とある調べ物があってとびこんだネットカフェ。
ネットカフェというサービスが世の中に登場して久しいが、一度も使ったことがなかったせいか、その間の進歩は本当にめざましくて、あまりのサービスの潤沢なようすにすっかりおどろいてしまった。(また驚いてる)
飲み物は飲み放題。アイスクリームも食べ放題。マンガや雑誌は山ほど置いてあるし、当然ネットも使い放題である。新しい都市の図書館といってもいい。
全てのサービスを満喫する時間はなかったけれど、次回から街を歩くときのコースに加えることに決定した。

同じく、TSUTAYA書店。
書店といっても紀伊国屋Book1stとは完全に異なるコンセプトを持っている。
回廊のようにデザインされた空間に、ジャンル分けされ、本だけでなく文具店やカフェも併設されている。置かれている本も一般的なものに加え、各ジャンルに特化した珍しい本があふれている。
本屋好きな僕はすっかり脳震盪を起こしたようになって、延々と回廊を回り続けてしまったのであった。(また驚いてる)
時間が許せば一日中、その回廊から出ることはできなかったのではないか。アリジゴクのような本屋である。こちらもルーティンコースに加えていきたい。

ルーティンコースは効率的だが、人生がマンネリ化してしまう。
ときにはルーティンコースを変えていくことも大切なことなのかもしれない。街に出るのが楽しくなる。

そういえばTSUTAYA書店は京都の平安神宮とか銀座SIXにもできていたなぁ。□

今日の一冊

漫画「冒険エレキテ島」鶴田謙二著 講談社

科学者のおじいちゃんと溌剌とした可愛い孫娘。
鶴田謙二作品の定番の設定である。
日本の美しい原風景に、ベネチアフィレンツェの風景、少年のもつ冒険心をきわめて自然に融合させる。
誰もがいだくノスタルジーと憧憬を、美しいペンタッチで2次元の世界に再現する。

日本の島々の住人に小型飛行機で荷物運搬をする女の子みくら。
亡くなったおじいちゃんが遺した資料から、海上で時折目撃されてきた謎の島・エレキテ島の存在を知り、愛猫と共に島を探す旅に出る。
絵の密度がものすごく高い。1コマ1コマが絵画のようで、じっくりながめていて飽きない。
現実には無い世界が描かれているのだが、現実にある光景を組み合わせて描かれているから、とても近くのように感じる。自分もみくらと共に旅をしている気分になれる。

6年ぶりに発売となった2巻。3巻はまた6年後だろうか。それでも待ち続けたい名作である。□

 

f:id:massy:20180602005541j:plain