今日の一冊

 

「緋色の囁き」綾辻行人著 講談社文庫

 

 

 

(注意;以下自分のためのメモ=全部ネタバレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・しつけの厳しいお嬢様女学校に学校長・宗像千代の娘として編入された和泉冴子。

・同じ寮の部屋の高取恵が、35年前に灯油をかけて焼身自殺したと言われる岩倉美津子と同じ方法・場所で焼死体で発見された。

・殺したのは、超お嬢様の城崎綾をリーダーとし桑原加乃、関みどり、中里君江、堀江千明をメンバーとする「魔女狩り委員会」。あまりに厳しいしつけにストレスの発散先として、クラスメートの中で風変りな女の子をいけにえ=「魔女」と決め、裁判をしてストレス発散するというお遊びのような会だった。

・高取恵は魔女扱いされ裁判にかけられたが、そのときに興奮したメンバーに本当に火を付けられて殺されてしまった。

・それから、この委員会のメンバーが次々と殺害されていくが、真犯人は、高取恵の殺害を目撃していた寮の管理人・山村トヨ子。

・山村トヨ子は、実は学校長・宗像千代の妹・加代=和泉冴子の母 だった。血をみていないと気がおかしくなり、血を求めがてら、悪しきものを殺してしまうという病で、その病を隠すため、千代の目の届くところに寮母として名を変え隠され、本人もかつての自分のことを忘れ、生きていたが、魔女裁判で人が殺害される現場をみたことで、病が再発し、5名の殺害に走ってしまった。

・間に挟まれるモノローグは、千代と加代の幼いころのもの。

サスペリアをオマージュに、本格ミステリとしての完成度も高い。□

今日の一冊

 

「俺ではない炎上」

 

 

 

 

 

「6人の嘘つき大学生」もよかったが、こちらもまた素晴らしかった。

文章がうまいし、ミステリーとしても完成されてる。

はらはらしたし、気持ちよくだまされた。

 

 

 

(注意:以下、自分のためのメモ=ALLネタバレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・主人公の山縣たいすけは、自分に身に覚えのない、自分のアカウントに死体の写真が投稿され、やがて本当にしたいが発見されることで、犯人とされ世の中のすべてに追われることになる。逃走しながら、犯人を捜す。

・犯人は、娘の夏美の小学校時代のクラスメートえばたんこと江鳩。

・物語の途中に入る、娘とえばたんのエピソードは、実は過去のもの(ここが最大のトリック)。そのときに夏美が作ったアカウントを現代の江鳩が利用し、女子大生たちの殺害を山縣たいすけのアカウントから発信していた。

・現在の夏美は「さくら」だった。山縣=山形県さくらんぼ。からきたニックネーム。自分がかつてつくったアカウントが誰かに使われて、父が犯人扱いされたことから、独自に捜査を始めていた。

 

 

 

あか抜けない。

 

世の中で一般的に観たり聞いたりする

「アート」や「デザイン」のかっこよさと、

 

自分の身近にある、

「アート」とか「デザイン」のかっこよさが、

かけ離れすぎているように感じる。

 

「デザイン」というと、例えば佐藤可士和氏が、

全く属性のない商品に命を吹き込むように、視覚的に新しいビジュアルやインスタレーションを作って、強烈に見える化していくようなものをデザインと思うのだけど、対して身近にあるデザインは、誰かが書いたお手本を清書しているだけ。という感じで、想像もしていなかっためざましいものが現れた!という体験をしたことがない。

 

「アート」だって、

美術館に展示されている現代美術に前衛的なとがったものを感じるのに、

自分らが生み出しているものってすごく田舎者のおままごとのようで、

全然洗練された感じがでてこない。

 

世の中の人たちが、「デザイン」とか「アート」という言葉に対して持っている期待とか常識のレベルっていうのが、ものすごく高いということなのだろうか。

デザイナー。って聞いただけで、そういう全員がもうすごくかっこいいものに携わっていると思い込んでしまうくらい、強烈にかっこよすぎる言葉なのである。

そしてそれに寄りかかっている、なんちゃっても結構多いという現実だ。

 

アートやデザインの世界に、片足でもつっこんでいるのならば、その世の中の期待をプレッシャーにする気持ちで、このみぞをうめていかなくてはいけないのではないか。

 

素人のにわかアーチストと、玄人の本物のアートが分かれる境界。その向こうを目指す気持ちで。□

最近思うこと。

 

確かに、好きな人にしか会わない。という生き方もありかもしれない。

 

人を全部嫌いにしてしまったら、ミステリにありがちな「歳を重ねてから人間嫌いになって山奥の館に逃げ込んだ」になってしまう。

でも彼も、別に世のすべての人を嫌いになったわけじゃないのだろう。

好きな人もいる。けれど、好きな人に会うために人の中に紛れていくと、嫌な人にも遭遇してしまう。で、そのダメージが好きな人と会うよりも消耗してしまうか、ダメージを受けるかしてしまうので、秤にかけて、結局「誰にも会わない」を選んだのではないか。

 

好きな人にしか会わない。はできないことではなくて、やろうとしていないだけなのではないか。

ではそのテクニックとは何か。テクニックなのだろうか。まあ、そんな処世術か。そんな技のことを最近よく考える。□

今日の一冊

 

林芙美子の「放浪記」を読んだ。

 

 

これはいわば「ブログの走り」だ。

 

が、とても読みづらかった。

膨大な日記から選り抜きで抜粋していて、日付も明確に書かれておらず、どんどん時間が飛ぶ。だからその都度、林芙美子が新しい環境に居て、新しい人間が居る。

唐突に始まり唐突に終わる。というか切れる。

そしてまた次の環境・時系列に飛ぶ。だからこの人が誰で、どういう環境で、といったことを読み解くのにとても骨が折れる。というか、読み解けないものが多い。

 

おそらくもともとは、誰かに読ませるために書いていたものではないのだろう。

100%自分のための日記ということだ。

文学研究者ならば、その行間や背景を読み取ったりするのかもしれないが、一消費者として読むには、かなりの労力を要する。

ただ、それでも今なお、この書が読み継がれているのは、その膨大な「ぼやき」の中に、「くじけそうになりながらも、生き抜く」。という、日々移り変わっていく環境におかれながらも、作者の強く生きていく信念のようなものが滲み出していて、それが文学的にも価値が高いと認められているからだろう。

 

思えば、自分のこのブログも、似たようなものだ。

誰かのために書いているというより、自分の中の澱を吐き出すという目的が強い。

だからといってはなんだが、もしかしたらこの10年余にわたる、このボヤキの数々は、「放浪記」さながらに、見えない自分を形作っているのではないか?と期待する(自分ではそれを見ることはできないが)。

 

自分という人間が、つまづいたこととか、乗り越えたこと、感じたことをなるべく赤裸々にかいているので、もしかしたら後続の若い悩める羊たちにとって、いつかなにかの心の助けになっていくかもしれない。そんなことは全く期待すらしてはいないが。

 

いづれ時間のあるときに整理して「もやまん放浪記」とでも題して出版をしたいと思いはじめている。

「放浪記」から得たのは、そんな「見えないリレーのバトン」のようなものかもしれない。□

さみしい。ということについて その3

 

「寂しい」って、やっぱり、ときどきある。

 

これまで俺には無い。なんて言い張っていたけど、そこそこあるね。

前言撤回します。

というか、歳を重ねていくことで、強気だったところが弱気になって。

あるいは、思い込んでいたことが、ただの思い込みだったということに気づいて。

これまで勢いで抑え込んできていた、寂しさが、にじみだすようになってきたのかもしれない。

長い間水面下で蓄積されてきた花粉症が、ある日突然発火するかのように。

 

「顔は知っているけど、仕事上の接点がない」という人に職場で遭遇した時、無意識に目をそらしてしまう。あるいは、相手の方から目をそらされることがある。

そんなとき、ふと「寂しい」と感じた。

この人物との関係は、「職場が同じ」という以外接点が無く、きっとこのまま目をそらしあう関係のまま、お互いの人生を終えていくのだろうな。と、ふと思ってしまったのである。

「そんなものは、気持ちの持ちようだ。こんにちは!と声かけたら仕舞だ」

という意見もあるだろう。

が、「こんにちは!」の後が続かない。

相手にしてみたら「?! やぶからぼうに、何?」となるでしょう。

そこに業務上、お願いするようなことがあったり、一緒に進めねばならないようなことといった接点があれば、業務に寄りかかるようにして対話をつなげていけるけど、まったく何もない0℃の関係から、常温まで、拠り所もなく温めていくだけの、気力や時間やスキルが、自分には、無い。

きっと彼もおもしろいエピソードや親友にしか話さないプライベートがあるのだろうが、それを話してくれるようになるまでの「環境」を作るには、自分のパワーが足りなすぎる。なので、あきらめるしかない。

.....と、そこまでを瞬時に感じての「寂しい」なのである。

 

はじめから温まった環境に入っていくのならば、どちらかといえば、得意である。

例えば、宴会などの席では、お互いが「話しかけても、話しかけられてもOK」という状態で始まるから、なにかを話し始めたり、聞き始めたりしたら、むしろ時間が足りないくらいである。だが、その環境を自分で作る、のは大変苦手である。□

今日の気になる

 

京都丸太町~祇園界隈の居酒屋・レストラン(画廊推し)

 

祇園四条

□ レストランキエフキエフ料理)

 

(地下鉄丸太町東側)

□ 京料理かじ

□ 十二段家

□ 入山豆腐

□ グリルデミ(行列)

 

(八条)

□ ふぐ八