夜の飲み物

 

夏休みが明けたころから、ずっと胃を悪くしている。

 

食事の量を減らしたり、ゆっくり食べるようになどしているが、回復の兆しは無い。
なんだか毎年、季節の切り替わりのこの時期になると、胃を悪くしている気がする。
夏休み中の暴飲暴食のダメージがはね返ってこんなことになったのかもしれない。
だけどそれ以上に、普段の食事の時間の不規則なことや、寝酒が大きな原因になっているのではないか。
これまで猛暑で抑えられてきた食欲が、涼しくなったことで一気に解放されて、胃酸がたくさん出るのに、制作が終わるまで夕食をとらないようにしているから、胃が焼けておかしくなっているのではないだろうか。
また、眠る前のちょっとした時間に手持無沙汰になって、ついお酒を飲んでしまう。これも胃を悪くしている原因なのだろう。

毎朝、ひどい胃もたれで目が覚める。

よくよく考えてみると、眠る前の酒はビール1缶と焼酎1杯くらいなのだが、酔える量ではない。
酔えるだけの量を飲む時間がないのである。
でも、そんな中途半端な飲み方をするくらいなら、むしろ飲まなくてもいいのではないだろうか。
それに代わるものを少し飲むくらいで代用できないか。
そんなことを考えて、WEBでいろいろ調べてみたら、暖かいものがいい。と出た。
たとえばハーブティとかホットミルク、薄めのコンソメスープとかがいいらしい。
ホットミルクがいいのならば、ホットココアでもいいかもしれない。
チョコレート好きは、当然ココアが大好きなのである。
ということでココアを買ってみた。スティック式で暖かい湯を入れるだけですぐにできる。これはいいかもしれない。

いつまでつづくかはわからないけれど、少なくとも胃の調子がおちつくまでは、酒以外の飲みものをいろいろと模索してみたいと思っている。

みんなはどんなものを飲んでいるのかなぁ。□

とがらせる。

村上春樹氏が「職業としての小説家」か、川上未映子女史との対談「みみずくは黄昏に飛び立つ」かで、作品執筆の舞台裏を明かしている。
その中で、氏は一気に書き上げた作品を、何度も何度も推敲していく工程があると語っている。

ぼくが絵を描く過程にもこの工程があって、ぼくはこの工程を「とがらせる」と呼んでいる。
たぶん、すべてのものづくりにはこの「とがらせる」という工程が必ずあると思っている。
ソフトウェア開発ならば、リリース前にテストを繰り返し行って、バグをしぼり出して修正していくところを指すだろうし、漫画の執筆においても、以前NHKの漫勉で東村アキコ女史が、最後に目の中に細かいタッチを入れたり、細かいところの修正をしたりという作業をしていて「とがらせる」ということについて語っていた。

自分が毎日書いているブログについても、とがらせる作業がある。
ブログは、毎朝記事をアップしているが、その日の通勤時間や昼休みなど、自分で読み返し、読みにくかったり誤解があるような箇所は何度も推敲しています。

最近、書き始めたころの古いブログも読み直し始めています。
いづれ、印象に残ったブログをまとめたいと考えているのです。

10年前の文章は下手だろうなぁと思ったらそこそこに読めるし、確かに自分が書いたものだということを思いだしたりしてなかなか面白い。
あのときと今の違いといったら、文章力というより書く時間だろうね。文章はうまくなってないけど、書くのだけは早くなったと思います。
でも10年前のブログはとがらせないようにしてます。推敲はしません。稚拙であるところも含め、そのときの記録を残したいと思っています。

この前、後で思い出せる1日のタイトルをつけるということを書いたけど、ブログは、10年後もしっかり10年前が思い出せるブログであるようにしたいですね。

10年前の文章から「過去を思い出せる文章とは」を学び直したいと思ってます。□

映画という花

アトリエでの制作の合間の休憩時間。

制作する仲間たちの間で、映画の話に花が咲きました。
先日観た「カメラを止めるな!」の僕の力説からです。

「面白かった?」

「どんな映画なの?」

この質問に答えるのは、じつはなかなか難しい。
「面白かった」と伝えると、人は期待を膨らませすぎてしまって「それほどでもなかったよ」と、なってしまうことがよくあります。
また、あらすじについて触れすぎてしまうと情報の入りすぎで、ゼロの視点で映画を見られなくなってしまう。

 

期待を持たせすぎず。かつ、ネタを漏らさないよう。そして、その映画に興味を持って実際に観てもらうために、僕らはどう映画を伝えるべきか。


おそらく映画評論家の人たちは、ここにすごく悩んで、何かの解答を手に入れたのだろうと思うのです。 

制作仲間の女性が、以前見た映画の話を聞かせてくれました。
その日、ちょっと時間ができたから、映画でも観ようとふらりと自宅を出て、映画館に向かったとのこと。
何を観ようかも決めておらず。そもそもどんな映画がやっているかも知らず。で、シネリーブル梅田までやってきた。
そこで初めて上映中の作品タイトルをざっと眺め、直感で観たい一本を決めて劇場に飛び込んだら、なんとそれは18禁のフランス映画で、双子の男性精神科医とその二人に診察を受けている女性患者の三角関係を性描写たっぷりに描いた作品だったとのこと。
序盤ではイケていなかった二人の精神科医も、女性患者も、ラストに向かうにつれてどんどん美男美女に見えて行ったと、楽しそうに話していました。

良い映画の観方をしているなぁと思いました。
映画ってこういう見方が一番素敵なんじゃないかな。
情報が豊かになりすぎて、観る前から、あれがよかったこれがよかっただの、どんな話だったかなんてことが溢れてしまっています。
どこの国の映画か。いつごろとられた作品か。どんなジャンルか。どんな物語なのか。誰が出ているか....。そんなことを何ひとつ知らない状態で、今、目の前で始まったものを、真剣にじっくり楽しむ。
これほど豊かな映画ライフはないと思う。
そうはいってもなかなかふらりと映画館にでかけて直観で1つを決めてみる。ということは時間貧乏の僕にはなかなかできないことです。
まずは、名作をたくさん放映してくれているNHKのBS映画から、時には名も知らないタイトルをエイヤで決めて観てみるなんて楽しいかもしれない。

せかせかする時間をいったん離れて、映画でも大人らしいスマートな楽しみ方に挑戦したいものです。□

セカンドオピニオン

 

「増田は前髪がなぁ....。」


(先日に続いて散髪の話です)

最近、絵画仲間の先輩たちと呑んでいたとき、もう少し前髪をなんとかしろ。みたいなことを散々言われました。
あれ?と思ったのは、ほとんど同じようなことを以前、全く別の女の子からも言われたことがあって。

よっぽどなんだろうなぁ....。と、ようやく課題意識が芽生えてきて美容院に行くことに決めました。

これまでの理髪店をいったん離れ、美容院に行ったらすぐに見違えるようになれる!と思い込んでいました。

でも、そんなわけはない。やっぱりそう簡単にはいかないみたいです。

とくに調べたわけでもなく、近いだけを理由に飛び込んだ美容院でした。

店内はおしゃれでとても綺麗でした。
ポップな曲が流れ、若くてかっこいいおにいさんやおねえさんが店内を忙しそうに動いています。
荷物をあずけるロッカーがあり、マガジンラックには様々なおしゃれ雑誌がささっています。

それでも、できあがった姿を見たときには、残念ながら期待したような姿にはなっていなかった。
いつもの理髪店とあまり変わらないなぁ。と感じたのでした。
それでもなんと、6500円もの費用がかかったのです。嘘でしょう。以前の理髪店なら2回行けてしまう。
圧倒的な差異があったのならばお金をかけたかいがあった。と満足できたのだろうけど、これならば理髪店で充分だよなぁ...と思ってしまったのです。

いろいろ反省すべき点があります。

まず、自分はどうしたいのか。をもっとはっきり伝えなくてはいけなかったと思います。

また、お店のことをもっと調べなくてはいけません。目に入ったから飛び込んだ、ではリスクが高すぎますよね。

あと、たった一回でいきなり上手な美容師に出会えるはずもない。
お気に入りの美容師に会えるまで5~6度も店を変えてきたという話も知人から聞きました。それくらいの努力はしなくちゃいけないよね。


折角、変わろうという決意を持ってここまでふみこんだのだから「やっぱり短ければいい」に逆戻りしまってはもったいないように思います。
せめて、何かいままでの形骸化したやり方を新しく変えられた。という手ごたえまでは持っていきたいなぁと思っています。

次回は、2か月後。

さて次はどの美容院へ行こう。楽しみながら知らない世界に足を踏み入れてみたい。

形から入る。.....というけど僕は、いまさらです。
でも魂がしごかれ、鍛えられてきた今こそ、外面を磨き始めるくらいで丁度いいのかもしれない。□

 

毎日がスペシャル

 

毎日にタイトルをつけている。

 

今年になって新しく始めたトライアルです。
毎晩眠る前に、ほぼ日手帳を机の上に開き、目を閉じて一日を振り返ります。
毎日が光のようにすぎていきます。
あまりにも早すぎて、「今日という時間は本当にあったのか?」と、とても不安になることがあります。もしかしたら、ぼくの時間だけが時間どろぼうに盗まれて、1日や1ヵ月がまるごと無くなっていたりはしないだろうか!?.....と、真剣に悩んだりもします。

ほぼ日手帳に、その一日に何があったかを記録することで、あとで見返したとき、確かにその日はあった。と、確認ができる。過ぎた時間を「見える化」するのですね。
手帳を書くのも、ブログを書くのも、絵を描くのも、失われていく時間を、見えるようにしておきたいからだと思います。

きっかけは北大阪大地震でした。

それまでは、ほぼ日手帳にその日におこったことを、箇条書きにする程度でした。
でもあの大きな地震を経験したとき、そのショックからか、箇条書きを3倍くらいの大きな文字で書いたのです。まるで新聞記事の見出しのように。
その見出しを見ると、今もあの日の地震のことを鮮明に思い出すことができました。
これはいい。ということで、以来一日にタイトルをつけるというトライアルを始めたのです。

7/30「迷走台風」

8/12「かわりゆく下北沢」

8/17「風のお墓参り」

8/22「絶倫イバラード

これまでの箇条書きに比べて、はるかに記録の意味が強まりました。
振り返るのも楽しい。

目指すのは、1年後に見てもタイトルだけからその日を思い出せるようにすること。
さらに、単なる自宅と職場を往復する平凡な一日でも、確実に思い出せるタイトルにしたいと思ってます。

どこまですごい一日を送れるか。竹内まりやじゃないけど、毎日がスペシャル。

これはぼくが一日をどこまで楽しく送れるか。そういう挑戦なのです。

 

まあ毎日ブログを書いているだけでも、タイトルをつけているのと同じようなものなんだけど。もっと即時性、一覧性を出したいということなのでしょうね。たぶん。□

台風の思い出

 

台風21号が去った。

 

ここ近年では稀に見る恐ろしい台風でした。

前日から職場では「全日不就業」の放送が入り、ものものしい雰囲気に包まれていました。とはいえ、これまで台風の騒ぎを経験したことがないわけでもなく、毎度毎度、騒ぐわりには、風やら雨やらを感じる間もなく「あれ、もう抜けたん?」などという終わり方ばかりだったから、今回も油断をしていました。

 

ほんとうにどえらい台風でした....。


自宅マンションのガラスに激しい風と雨が、何度も何度もたたきつけ、吹き荒れました。窓ガラスが割れて部屋の中に飛び込んでくるのでは...と怯えるほどに。
どこかから飛んできた陶器のようなものがベランダの壁にぶつかって粉々に崩れる音がしました。
マンション自体も風が吹くたびに揺れていました。
まるで、怒り狂ったお露さんが「おのれ新三郎!この札をとれぇぇ!!扉を開けろおおおおぉぉ」と荒れ狂うくらいに(お露さんはそれほど荒れません)。
今外に出たら必ず死ぬと感じるほどの暴風雨でした。
14時すぎに荒れ狂った暴風雨は、16時にはすっかり落ち着いていました。日本海の方に抜けたようでした。
18時ごろに仕事を終え、外に出てみると、街は真っ暗だった。どの商店も今日だけは全て休業を決めたようで、街頭までもが消えていた。街が死んでいる。

 

f:id:massy:20180904185005j:plain


6月の北大阪地震の後に、同じように街を歩いたことを思いだした。
なにか大きなものを喪失したかのように途方に暮れ果てたあの気持ちと、どこか似ていた。


ふと小学1年生のころに経験した台風を思い出した。
これほどまでに大きい台風の記憶は、あのときの1回だけだった。
台風が迫るその日、小学校で授業を受けていたが、窓の外の景色が刻一刻と激しい暴風雨に変わって行った。
やがて集団下校をするよう先生から指示があった。
全生徒を地区ごとにわけて、先生が引率して家まで送り届けてくれた。
鮨屋であるわが家に帰ると、暴風雨の猛威はさらに激しくなったが、父はそんなことはおかまいなしで店を営業していた。
突然、ふっと店の電気が全て消えた。停電である。
現代ならば、停電なんてあまり起きることは無いし、起きたとしてもすぐに復旧されたりするのだろうけど、当時の停電は長かった。
夜になると台風の猛威は去ったが、停電は続いた。
父は近所から蝋燭を調達して、カウンターに並べて店を続けていた。見上げた根性である。お客さんも、蝋燭で寿司を食べるなんてまたおつじゃねえか。なんて言いながら、みれば店もそこそこに盛況だったと記憶している。お客さんの根性も相当だ。昭和という時代はみんな元気だった。
そうしているうちに、停電が復旧した。お客さんたちは少し残念そうにしていた。
翌日、学校に行くと、校庭の桜の木が倒れていた。
僕が入学したときに満開に咲いてくれていた桜だった。台風はそれほどまでの猛威だったのである。
桜の木を失ったことと長かった停電が、あのときの記憶が今なおはっきりと残っている理由かもしれない。

今回の台風21号はあの時の台風に匹敵するものだったと思う。

10月くらいまではまだまだ台風はやってくることだろう。
もうこんな思いはこりごりだが、台風が猛暑の夏をゆっくりと吹き飛ばしていくのだろう。

また、秋刀魚と土瓶蒸しの季節がやってきます。□

そして誰もいなくなった。


「みんな、いなくなってしまうなぁ」


髪は短ければいい。そう思って、これまでずっと格安の理髪店に行っていたのだけど、そろそろ卒業かな。と考え始めています。

理髪店には数名の理髪師がいて、予約なしで飛び込むと、そのとき手の空いた理髪師が髪を切ってくれるシステムです。
うまいなぁと思った理髪師がいても、指名することは出来ません。
コストを落としている分、より多くのお客さんを手早くさばくことを優先しているからです。
中には、ちょっと....という理髪師もいたりします。
誰が僕の髪を切ってくれるのか。それは風だけが知っている。(ナンチャッテ)
ロシアンルーレットをこめかみに当てるような気持で理髪店に飛び込むのです。
うまいなぁと感じる理髪師はすぐに姿を消してしまいます。
やめてしまったのか。別の店舗に転属となったのか。それも風だけが知っている。(クドイ)

みんないなくなってしまう時代です。

長く1つの仕事に取り組むという働き方は、なくなりつつあるのだろうか。

人の手を使ってやっていたことをロボットがやってくれるようにもなってきている。

時代と共に不要となった仕事は消えて、人の手からロボットの手に移り、聞いた事も無いような職種が次々に生まれています。

人間としての働き方、生きがいはどこに残されていくのだろう。

変わっていくものもいいけど、変わらないものを、もっと大切にしたいよね。□