「小泉八雲集」を読んで

新潮文庫版「小泉八雲集」を読む。


小泉八雲と言えば、一般的に「怪談(KWAIDAN)」が有名である。
実際、本書の2/3は怪談・奇談のアンソロジーのようになっている。
これはこれで娯楽的で日本民俗学的な話が多く、ぞくぞくと楽しく読んだ。
残りの1/3は、小泉八雲が見た日本人論が展開される。
本書の主題はやはり後半にあると思う。前半の怪談・奇談集はむしろ後半の事例集とも取れる。



とくに「日本人の微笑」は必読である。


八雲が接した当時の日本人はたとえ最愛の人が死んだときであっても、また自分の死の間際であっても常に微笑を携えていた、という。海外の人間にはそれがとても不作法で理解しがたいことであったとのことだが、それは常に相手のことを最大限におもんばかり、つつましやかに人と接するために、身分も関係なく日本人ならば誰もが備えている作法であった、と説く。

.....感動した、というよりひどく反省した。という感じだ。
そして最後の一段落を読んだときには思わず、泣いた.....。
現代の日本は、海外の論理的で即物的な考え方を受け入れ、世界的にも稀にみる発展を遂げてきた。でも、なんだかとんでもなく大切なものを捨ててきてしまったのではないか。と改めて感じた。


自宅そばにある、田んぼが好きだった。
風情もなく林立する下品なマンションの谷間に、ひっそりと、それでいて堂々とひろがる凛々しい黄緑。そしてそれに応える無限の青空。その空間にいるだけで都会の喧噪を忘れ、しずかな気持ちになれた。引っ越して来てすぐスケッチをした思い出もあるところだった。
が、その田んぼもある日、突然埋め立てられ、駐車場に変貌した。
その美しかった空間が、突然品格のかけらもない見るも無惨な空間に変貌した....。
こんなことがあるたびにどんどん狭い空間に押しやられている感じがする。そして自分自身も毒におかされているような焦燥感・絶望感に浸される....。


自分にはそのような大きな権力にはむかうチカラは残念ながら、ない。
ただ、たとえロクデナシと称され、時代と逆行してでも、自分なりの日本人としての品格を取り返したい。と強く思う。
自分にとっての絵はむしろそれらの思い、願いを実践するための手段ともいえるのかもしれない。□