主張しない。

アトリエの作品展の陳列に立ち会って、

自分の絵がどこに置かれるのかを眺めていた。


そもそも陳列する側なので、絵の位置は自分で決められるんだけど、じゃあ前に置こうか。なんてことは当然、考えたことはない。

 

そもそも、自分の絵の位置に興味はなかった。

とくに今回のは失敗作だったから、どこにでも行け、と思っていた。

家に持って帰ろうとすら思っていた。陳列する価値もない。

目的はただ「出品している」。「あいつの絵がある」。と、関係者に伝わればいい。それくらいでしかなった。

 

うまくいった絵であれ、失敗した絵であれ、絵が置かれる位置なんてのは、勝手にしかるべき場所に決まるものである。

それが優れたものであれば、より見やすい場所に置かれるし、劣ったものであれば、隅っこの見難い場所に置かれる。それだけのことだ。

絵がどこに置かれるかなんてことは、放っておけば、その絵にふさわしい最適な場所に決まる。

川の流れが、絵の位置を勝手に、しかるべき場所に決めるのだから、その流れにまかせて漂っていたらいい。そういうものだと思う。

 

一番力を入れるべきは、制作のフェーズであり、そこで自分の意志で作品に魂を込めることができる。アトリエを離れた絵は、もはや世界に判断をゆだねることしかできない。だけど、それを、自分の主張で押し上げようとする輩がいる。

彼らは、自分の絵は、もっと前の位置に展示されるべきだ。と、強引に価値を押しあげようとする。

いわば「私はできる人間だ」「私は個性的だ」と主張し、仕事で達成できていない自分の未熟さを、言葉や行動によって補い、自分以上の自分に見せかけようと力を注いでいる。

 

世界が決めることを、自分から主張するなよ。

 

繰り返すが、主張をしていいのは、制作のフェーズだけだ。それが主張を作品に詰め込める最後の機会である。作品が完成し家を出たら、もうあとは天にまかせることしかできない。はずなのだが、外に出て行ったあとに、まだ、つべこべと言葉を足しこんで、補完しようとするのは、足りてない自分の未熟さを披露するだけであり、醜悪の極みである。

 

結局、自分の絵がどこに流れ着くかをにやにやしながら眺めていたら、下流の方に落ち着きかけていたから、まあそんなものかと思っていたが、「もっと前じゃないと示しがつかない」と所長が述べ、前の方に引き上げられた。

なんにせよ、少し前だとか後ろだとか、そんなちっぽけなことに、力を注いでいる場合じゃない。

誰が見ても圧倒的に一等賞。

そんな作品を作っていたら、主張する必要なんて全くないのだから。

パワーを注ぐのはそこだよ。□

回収する。

 

昔、置いてきてしまったモノやコトを、

生きているうちに回収しておきたい。

 

そういうものってないですか。

例えば、怖くてずっと観られなかった「エクソシスト」だけど、
いつかは、必ず観ておきたいと思っている。とか。
当時は、そんな怖いもの絶対に見られない。と完全に人生の選択肢から排除していたけど、時間が経つにつれて、義務感というか、興味というか、やり残しては置けないような気持になってきて、回収しておきたいと思うようになる。そういうものです。

 

小学校時代に買った「大どろぼうホッツェンプロッツ」だが、結局読まずに終わっていた。
もうそのころから自分は、積ん読の癖があったのだ。
本は好きですぐ買うのだけど、買って満足しちゃう。
読んだらもったいないとか変な理由をつけて、大切に持っていて、いざというときに読もう。なんて思っているうちに、次の本が出たやら、ファミコンに忙しいやらで、時間が流れて、結局、一度も読まないままお蔵入りになってしまう。

「マガーク少年探偵団」も、目を引くイラストレーションがカッコイイからジャケ買いして、大切にもっていたのだけど、読んだか?というと読んではいない。ただ持っていただけ。だったのである。

素晴らしいイラストレーションとブックデザインに惚れて、表紙を眺めて、パラパラと挿絵を眺めて楽しんで、で、終わってしまったという。

 

そういう本を今、回収したいと思い、「大どろぼうホッツェンプロッツ」を読んだのだが。

 

めちゃくちゃ面白い!

挿絵も素晴らしい!!

 

みたび。まで一気に読んでしまった。

1,2で大どろぼうとの壮絶な罠の掛け合い、戦いがあり、差ながら江戸川乱歩の少年探偵団VS怪人二十面相のドイツ少年版を読んでいるようだ。

そして3でのホッツェンプロッツが堅気になろうとするという変化球的展開もいい。

どうなる?!という続きが気になる展開と、わかりやすいストーリー運びと優れた挿絵で、最後まで一気に読ませる力がある。

 

なぜ今までしっかり読んでおかなかったのか。

まあよい、今読めたことに感謝を。

引き続き、過去に封印してきた数々の名作を紐解いていきたい。□

蟻。

 

「育児」ってのは、「未来への投資」と言い換えられるのかもしれない。

 

「今」だけでみたら、ただ、時間と体力を喪失した。

と思ってしまう側面があるのかもしれない。

だけど「時間と体力を未来に投資している」と考えると、

気持ちが落ち着いてくる。

アリとキリギリスで言えば、

こつこつと未来に向けて積み重ねているアリのような気持か。□

今日の日本酒 番外編

 

BAR ヨーコ ドライレモンサワー

 

 

 

楯の川酒造の新たな挑戦と楽しいコンセプトの提案を応援したい。

が。

正直、楯の川の旨さが活きていないように思う。

 

日本酒で作られたサワーということだが、日本酒を感じない。

一般的なサワーであれば、焼酎で割るということになるが、このドライサワーはどうやって飲んでいいのかがわからない。炭酸水で割って飲んでいるが、一般的なチューハイとの差を感じない。

色々課題は感じるが、コンセプトは楽しいので、TRY & ERRORで頑張っていってほしい。□

光る君へ

 

大河ドラマについて。

 

1年間もドラマを見るなんてとても無理だ。

ずっとそう思っていたが、鎌倉殿。家康。と、2年間見てしまった。

 

3年目の今年は「光る君へ」。

源氏物語が生まれるまでの紫式部の物語らしいのだが、正直なところ、どうやってそれで1年間におよぶドラマを描くのかが、イメージができない。

大河ドラマの醍醐味である合戦もない。どのように面白くするのか想像ができない。

 

ただ「紅白歌合戦」でも気づいたことだが、最近は、作り手の苦労を思い始めるようになっていて、やすやすと「面白くない」とか言えないようになっている。作ってもいないお前が、よくも頑張って作っている人の悪口を言えるものだ。という戒めが、もう一人の自分から差し込んでくるのである。

映像業界の先鋭たちが、徹底的に時間や手間をかけて、1つ1つ作り上げている。その苦心をふみにじるようなことはとても失礼に当たるのではないか。

 

大河ドラマって蝉の一生みたいなものだ。

今年の放送に間に合わせるために、昨年の家康で盛り上がっているときにはもう撮影に入っていただろうし、さかのぼれば、脚本はその1年くらい前から始まっているだろうし、企画はさらにその1年前。。なんてことになる。

我々の目に触れる1年の前に、5年位の歳月が積み重なっているのだろう。これは、もう蝉の一生ですよ。

こつこつと土の下で成長させ、短く花開く一生のような。

 

で、「光る君へ」だが。

うーん、おもしろいんだけど...?なんだろうこれは。

暴力を使わない権力争い。です。毒薬も使うし呪いも使う。病の原因もわからないことが多い時代だから、それを呪いだと信じていたりする。そんな技術、社会の未熟さの上に立つ、それでも人間はどの時代でも権力が欲しい生き物である。ということを描く。大臣になってもそのポストやそれ以上を得るために、天皇すら引きずりおろそうとしている。

観ていて退屈はしない。だが、観終わったあと、やはり、どこへ進んでいっているのか。が、未だつかめずにいる。この先に源氏物語が生まれるということがつながってこないんだな。

 

個人的な要望としては、潤沢な時間とお金があるからこそ「再現」に見えてしまうところを、抑えてほしい。例えば、現代の再興技術で当時の人たちが着ていたであろう着物を作ったら、それはすごいものができてしまうのだが、当時の人はそんなものは着ていない。「再現」「作り物」感が出てしまう。

当時の技術であれば、最善であったとしてもたぶん、ほどほどにくすんでいたり、ムラがあったりしたと思う。あえて、当時は「それでも汚かった」というか。そんなところをきっちり表現してほしい。□

今日の一冊 鵺の碑

 

「鵺の碑」をようやく読み終えた。

 

 

我ながらこんな時期によく読み切ったものだと、
感心する以上に、呆れる気持ちもある。
よほどなんでしょう。
どれだけ時間が無くても、忙しくても、
1日1文字1行でも本を読み進めたいという気持ちが。

 

一言でいえば、「落語」です。

登場人物の複数の視点が、鵺の各部位で設定された章に分けられて
並行で物語が描かれるが、まあ、長い。キャラクターたちの対話が。
本編に関係のない蘊蓄やら座談やらが続く印象で、とっとと結論を
聞かせろよ。と思う所もあるが、そういう読み方をするものじゃあ
ないのでしょう。それが落語を聞かせるようなところに似ている。
物語がどうこうというよりも、その過程の聞かせ方を愉しむというか。

 

 

(注意:以下ネタバレのメモ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・3人の死体が消える。
 1人は崖から転落した植物学者。2人は社会の裏を暴く新聞編集者の夫婦。

終戦間近に原爆を作るための材料を開発する施設が作られ、
 植物学者はそれを目撃した者。夫婦はそれを暴こうと調査していた者だった。
 原爆の開発を隠ぺいするために死体は隠された。としてストーリーが進む。

・が、その正体は、原爆の開発をするための施設ではなく、原爆を開発する「ふり」をしている施設だった。

・本当に原爆を作っていると信じているスポンサーと、作っているふりをしていることを隠そうとしている研究者の両方が、めいめいそれぞれの秘密を隠ぺいするために、死体を隠したり、引っぱり出したりしていた。

・施設の周りにいたものが目撃した「光る猿」や「燃える碑」は、原爆をつくっている=周囲に放射能があふれている。ように、なんちゃって研究者が、スポンサーにまじめにやっているように見せるために、まき散らされた夜光塗料や化学物質だった。すべてフェイクの産物。

 

ざっとこのようなストーリー。それが800ページにわたって描かれているというのが、やはり「落語」だと思うのだ。□