(注意:全てネタバレで書きます。)
全体的に、悲壮感が漂っている。
太平洋戦争の末期から日本の復興期の混沌の時代を舞台にしているからだろう。
冒頭から、特攻から逃げた青年が、逃亡先の島でゴジラに襲われ、現地に滞在していた整備士たちのほぼ全員がふみつぶされ、かみくだかれるといった殺戮が描かれる。
トラウマを抱えながら日本に生きて戻れば、焼け野原の東京だ。
みなしごを抱えたのり子との、その日暮らしの数奇な共同生活が始まるが、ようやく復興してきた矢先、銀座にゴジラが上陸し、容赦なく、粉々に街を粉砕し、復興前の状態に逆戻りする。
その上、ゴジラが放つ熱線の爆風で、のり子は吹き飛ばされ、死亡。青年は特攻から逃げたという負いを解消することすらできない上に、さらにのり子を救えなかったという負いも背負うことになり、黒い雨の中、絶望の叫びをあげる。
ラストには、ゴジラをなんとか駆除し、死んだと思っていた紀子が生き残っていたという吉報が入り、それまでの悲壮感を帳消しにしたようにも受け取れるが、現実の今、日本各所での地震や大雨の被害などが、ゴジラに見立てられる様に思いだされ、爽快感はえられない。
庶民目線で描かれたゴジラの恐怖は、シリーズでも屈指である。
これまでのゴジラは、観客は劇場という安全な場所にいて、スクリーンの中で暴れまくる。視聴者は、動物園の折の中で猛獣同士が戦うのを楽しむかのように娯楽としてゴジラを鑑賞できた。が、本作は、視聴者も同じ檻の中に閉じ込められて、劇中の人々と共に逃げまどうような、容赦のない恐怖を味わう。
ある意味、これまでのゴジラ史上最もバイオレンスな作品であると思う。
最後の「これで終わりじゃないぞ」という終わり方は、やはり尽きることのない日本の厄災の象徴であり、また作品としては恒例の次回作の監督へのバトンなのだろう。□
アニメ「葬送のフリーレン」を観て、
色々語りたいのだけれど。まずは、
フェルン。
可愛い。と思ってしまった。
一級の魔法使いでありながら、なにかにつけ「むー」と機嫌を損ね、
パーティの仲間であるフリーレンやシュタルクに、あたりちらす。
ありていにいえば、「面倒くさい女の子」である。
だけど、屈指の魔術スキルを持ち、実戦では一切の感情も抑え、地味な修行の成果を表出し、たんたんと敵を打ち倒す。そんな優秀な女の子の姿と、面倒くさい、いわゆるわがまま炸裂女子。の姿が重なったとき、多くの男子は不思議なことに、「可愛い」と受け止めてしまう。
20代くらいの若い男子は「フェルン可愛い!彼女にしたい!」などと考えているのかもしれないが。もし彼女がリアル妻になったとき、どんな惨劇となるのか、想像したことがあるのだろうか。
そんな時代をとっくに過ぎている今の自分は、このフェルンという女の子がこの先、おそらく「とても怖い女性」になっていくのかが手に取るように読めてしまうのだが、そんな自分ですら、やっぱりフェルンを可愛いと思ってしまうのである。
大変なことになるのがわかっているくせに、それでも惹かれてしまう。
男という存在は、ばかなのだろうか。
だが、それ以前に、これは神が生み出したプログラムなんだろうとも思うのである。
おそらくお互い、自分にないものにひかれてしまうように作られているのではないか。
そして、これは誰かが言っていたのだが、
当事者にとっては「悲劇」であっても、他人からみたら「喜劇」になる。
フェルンとシュタルクのつばぜり合いは、本人たちは真剣であっても、やっぱり観ている自分たちにとってはコメディになってしまうのだ。
自分の今も、たぶん外からは全てコメディに見えているのだろう。□
「期待をしない」ということを座右の銘としてきた。
これは概ね、
誰かが自分のために何かをやってくれる。ということに対する期待を、
限りなくゼロに近づけていく。という行き方だが、
これまでのこの行き方をVer1.0とみなしたとき、
今、新たにそれをVer2.0まで格上げしなくてはいけない気がしてきている。
「休みの日は、ぐっすり眠ることができる」
これまではそういう休み方をしてきたし、休みというものはそういうものだと、楽しみに、当たり前のように期待をしてきた。
だが、ここ半年以上、平日だろうが、休日だろうが、何かにつけて、たたき起こされるような朝が続いていると、ふと、ぐっすり眠ることができる機会なんて、これからの人生で、もしかしたら、もう二度と来ないのかもしれない。と、思い、絶望的な気持ちになった。
これからの人生は、ぐっすり眠ることができる。といった、自分の生理現象に関わることの期待すらも捨てて生きていかなくてはいけない。
ここにきて、期待しないという座右の銘はVer2.0に格上げされてしまうことになった。
人生というのは、生きるほどに、これほどまでに過酷になっていくものか。
修行で死んだら本末転倒だけど、ほんとうにいつ死んでもおかしくないくらい、過酷である。
修行を求める人だったら、「まってました修行!」とこの状況をワクワクしながら受け入れられるのかもしれないが、どちらかというと、「そろそろ修行なんて卒業したい」と思っている自分には、こえがひどくこたえるのである。
まさに、これこそが、シン・修行である。□