今日の日本酒

 

十六代九郎右衛門 純米吟醸 播州愛山 生原酒

(長野県木曾郡/(株)湯川酒造店/84点)

 

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酒の狩人・白菊屋さんへの2回目の訪問。

お勧めで手に取った「九郎衛門 愛山」。

苦労する僕にはぴったりの銘柄だ。米の種類でいくつか出てます。

コロナの影響もあって自宅で飲むことが増えた分、いろいろなお酒を試しているのだけど、今年は当たり年で、すべてが美味い。

前呑んだ酒に、新しい酒が上書きされちゃうから、自分の中では激戦区状態になっている。年末のもやテンでは、さぞかし悩むだろうなぁ。

なかなか強いお酒なので、毎晩ぐい吞み1杯ずつ。少しずつ楽しんでいただきました。□ 

今日の記事

 

どこか、ふざけているような、

いいかげんかと思わせるような、

なんともユーモラスな文体でありながら、

堅牢な立場で、社会的な実績を残している姿に、稀有な才能と余裕を感じます。

 

馬鹿が馬鹿なことを書いても言葉は空虚に感じるけど、

天才が馬鹿なことを書くと言葉の裏の宇宙を感じます。□

今日の料理

 

ガパオライス なんちゃってVer.

 

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熱帯食堂のガパオライスがあまりにも美味かったので、僕も作ってみようと思ったわけです。

ナンプラーを買いに行くつもりが、ガパオソースみたいなものが売られていて、簡単に作れるものがあるんだな、と飛びついてしまいました。

おいしいです。だけど、ガパオライスではないね、これは。ガパオライスの亜種とでもいうべきか。否、別の料理かもしれないね。

やっぱりナンプラーを手に入れて、正しいレシピで一度やってみないとだめだね。

では、また次回□

★定年後 その2

 

欽ちゃんが70を過ぎて駒澤大学に入学したという話が以前あって、いくつになっても学ぶという気持ちは変わらない。という、熱い想いのすばらしさを、僕らに教えてくれる機会にもなりました。

 

「毎日、会う人がいるというのは大切なこと」

 

社会人でいる間は、好きでも、嫌いでも、ほぼ強制的に毎日誰かに会わなくてはいけないし、誰かと話さなくてはいけないから、誰かに会うということが無意識の当たり前なことになっているけれど、社会人を卒業してしまったら、それも当たり前ではなくなってしまう。

第二の人生として新しい趣味に没頭したりして、同じことに興味のある仲間たちとコミュニティを作って深く研鑽を重ねる。なんてことができたら、毎日は変化に富んで楽しい日々を送れるのでしょう。

 

1.体を動かす

2.街に出る

3.人に会う

4.創造する

 

このたびのコロナ騒動を「定年後のシミュレーション体験」と受け止めたとき、今、自分が当たり前としているこの4つを、定年後もしっかり維持し続けていくことができるかどうか。

これこそが、第二の人生を成功させられるかどうか、の明暗になるのではないか、と考えました。

自分一人で閉じた生活をしていたら、自分一人が持つ以上の、情報や変化は得られません。むしろ、自分がとても狭く、小さくなっていってしまいます。

仕事を卒業した人が、短期間ですっかりおじいちゃんになっちゃった、みたいな話をきいたことがあるけど、それは「外への門を閉じちゃった」からだと思うんです。逆に、いつも自分がすべきと信じる仕事を持っている人は、いくつになっても若い。

自分の意思を越えた、外からの「揺さぶり」や「変化」を浴び続けられるかどうか。さらには、ほどよいレベルでも「社会的ストレス」のようなものを持てるかどうか。なのだと思います。
さらに、それらを受けて、自発的に何かを作る。そして発信する。
土いじりしてトマトを育てるでもいいし、楽器を奏でても、絵を描くでもいい。
ただやるだけじゃなくて、発信する。それを誰かにそれを見てもらったり、味わってもらったり、評価を受けたりする。それがストレスになって、やりがいとなるのである。

 

このたびの、僕のこの長い籠城生活の大敗北は、この4つを見失ってしまったからだと強く思うのです。

逆に、そんな体験をし、シミュレーションとしてでも、自分の転落具合を体験できたことが、このたびの大きな成果だったとも取れます。そうとでも思い込んで、このふがいない気持ちになんとか踏ん切りをつけたいと思いました。

この不思議な島民生活もそろそろ終わりです。

リハビリも必要かもしれないけど、また元のレールに戻っていきます。□

 

五感と共に

 

ここ最近のブログは、まったく面白い記事をかけてない気がしている。

 

読んでくれている人(ほとんどいないと思うけど)、ごめんなさい。

 

何かを描いたり、書いたりするエネルギーの源は「感動」です。

「感動」は、ほとんど外で手に入れてます。

外を歩いているときに、目や、耳や、鼻といった五感から入ってくるものです。

昨日は咲いていなかった花が、今日咲いている。

空気が湿ってきて、夏のにおいを感じる。

昨日はなかった新しい食材や果物が店頭に並んでいる。

大きなわんこが向こうから歩いてくる。

突然雨が降ってきた。

突然風が吹いてきた。

そんな予想を超える、大きなこと、小さなことが大きな感動、小さな感動となって、言葉や絵にとどめておきたいという気持ちに火が付き、作品を作る。

ずっとそういう生き方をしてきました。

自宅にいようと外にいようと、どんな手段であっても、同じものを感じ、受け止められれば良いのだと思うけど。

ぼくはそれができなかったな。

世界は毎日小さく大きく動いていて、それを受けて僕も動く。それがまた世界に影響を与えて、また戻ってくる。そのサイクルから自分がはずれてしまっているように思うのです。

ネットを介して、それに加わる新しいものも生まれてきています。でも代替手段にはならない。横に並ぶもうひとつのもの。と考えてます。

これまでの謹慎もじょじょに解除に向かっているようです。

ブログの記事もまたとがらせていけるのではないかと期待してます。□

★定年後 その1

 

「定年後の生活ってそんな感じよ」

 

アトリエで共に描いている年配の女性が言った。

このたびのコロナによる長い自宅での謹慎生活を、彼女は例えてこう言ったのだった。

今の僕にとっては、自宅にいようと外にいようと、仕事をしていることや仕事の内容になんら変わりはなく、通勤時間は無いものの、朝8:45から残業も入れて20:00前後まで働く日々は続いていて、すべては定年後の生活とは言えないのだろうけど、「寝ても覚めてもほとんどの時間を自宅で過ごし、外出は買い物だけ」という部分だけを抽出してみると、定年後の生活の片鱗をシミュレーションしているとも言えなくはない。
その女性の発言を、なるほどと素直に受け止める。

平日の業務という大きな骨格の部分がなくなって、自由時間として開放されたとき、少なくとも僕は、それを持て余した。
長い仕事生活で抑え込まれ、先延ばしにされてきた映画やら、ゲームやら、漫画やらと言った娯楽への欲求を、この機会に開放してはみたものの、楽しかったのは最初だけで1か月も過ぎるとすぐに退屈になった。

娯楽への欲求ということをもう少し深く見ると、インプット、つまり「誰かが作ったものを消費する」ことを浴びるようにしたい。ということなんだろう。

消費することを突き詰めていくと、評論家や学芸員というプロフェッショナルになるのだろうけど、僕にはそこまで消費を突き詰めていくことはできそうもなかった。

何かを作り、発信する。こう書いたとたん、古くなっているとわかっている生牡蠣を食べさせられているような嫌悪感を感じてしまったが、やっぱりここに戻らざるを得ないような気がしている。

消費をしているときは楽チンで楽しいのだけど、後味が悪い。

生産をしているときは苦しくてたまらないけど、後味が良い。

結局どちらかを選ぶしかなくて、僕にとって自分を許せるのは後者ということなんだろう。

コロナの謹慎生活は、刑務所暮らしともとれるかもしれない。逮捕されたホリエモンは獄中にいながらもブログや出版活動を続けていたという。刑務所にいようが定年で自宅にいようが、もつべきは「規律」で、それは「生産」に置き換えられるのかもしれない。(つづく)□