眠る。

 

2026年サッカーW杯 アメリカ×カナダ×メキシコ大会 が始まった。

 

今回はNHKが全試合を放送してくれるというので大変ありがたい。
(このまえのWBCはニュースですら一秒も映像が流れなかったくらいで、全く見れていなかった。けちだよなNetflixって)

 

が、今朝5:00~ 日本代表VSオランダ代表の試合を見ようと目覚ましをセットしていたが、起きる事が出来ず、目覚めたら残り5分になっていた......。

 

試合を観るということは、放送されるかどうかに加え、自分が観られる状況になくては、当然観れはしないのである。

昨今、無料で配信される漫画とかもあるけど、有料・無料以前に、それを消費する時間をどう確保するかの方が余程、切実な問題だ。

 

まあ、おかげで、いつもより早く布団に入り、ぐっっっっっっっっっっっっっっすりと眠る事が出来た。これだけ眠れたのも本当に3年ぶりくらいではないか。

おかげで今朝はものすごく快調で、まるで新年の朝を迎えたような清々しい気持ちである。寝るってこれほどまでに元気になれるのかと改めて思い知った。

 

だけど、ではこれからずっと早く寝たらどうか?となると、そうもいかない。

結局寝ちゃっているから、その時間でやろうと思っていた仕事が全く進んでいないからね。眠りをとるか、仕事をとるか、のせめぎ合いで生きていかなくてはならない。

で、やっぱり、自分なりの世界を前にすすめるために、自分はは睡眠時間を削って生きていくことを、選択せざるを得ないのだと思う。

 

やりたいことは増えていく一方なのに、

可処分時間、ほんとうにないよなぁ。□

もたれる。

 

フードロスの時代だ。

 

賞味期限が切れても基本的には口に入れてみることにしている。

 

さすがに、なまものや、1か月以上たってしまっているもの等は避けているが、それ以外であれば、大抵食べられるし、これまでにそれで食あたりや中毒を起こしたことはない。

が先日、賞味期限切れから5日ほど経過したハムサンドを食べたところ、胃もたれが起こった。昼から夜にかけて長引いて、夕食はほとんど食べられなかった。

 

これまでにも、胃もたれは、いろいろなところで起こしている。

振り返ってみると、外食で食べた天麩羅定食や、イタリアン。作ってから数日経過したビーフシチュー等を食べたときに胃もたれが起こっていた。もたれ方や長引き方にも差はない。

 

ここで思い至ったのは、

 

「油」である。

 

これまでの胃もたれの原因は全て「油」のせいなのではないか。と。

賞味期限切れとは、すなわち、作ってから時間が経つと、油が悪くなるということだ。そして更に経過すると腐敗に進行していく。

油が悪くなっても、食べられないことはない。

若い人であれば、体力もあり、臓器もが強いだろうから、胃もたれなど起こすこともないのだろうが、歳を重ねた人間には、悪い油は、確実に体にダメージを与えてくる。

 

悪い油を使った食品は、食中毒の入口である。

 

逆に言えば、これまで胃もたれを起こした天麩羅やイタリアンは、悪い油を使って調理したのだろう。例えば、数日入れ替えもせずにずっと同じ油で天麩羅を上げ続けているのではないか。コストを落としたいということもあるだろうし、どうせ大丈夫だろという傲慢さもあるのではないか。

 

外食ができる機会も減ってきているから、折角食べるのであれば、多少は高くても良いものを出してくれる店を選ぶようにしたいと思う。

あと古いものも、がんばってたべるのは避けたい。というか期限中に食べろってことですね。□

デスストランディング2、終わったけど。

 

デスストランディング2、ようやくクリアした。

深夜にコツコツとプレイして、1年くらいかかった。

 

ぶっ飛んだラストバトルに大笑い。

ミステリー的な要素も、ホラー的な要素もあって、

間違いなくゲーム史に残る傑作だったと確信する。

 

気付けば160時間以上もやっている。

物語を進めずに、広大なマップをうろうろするだけの時間が長かったから。

ストーリーだけ追いかけていたら多分、30時間もあれば終わったのではないか。

でも、やはり本編はクリアせずに、わき道に入って遊びつくしておくべきだったと後悔してる。

エンディングをみちゃったら、なんか自分の中で大きなものが抜け落ちた感じになって、あれだけやりたかった高速道路やジップラインの建設も、なんか張り合いがない。

フラジャイルも、レイニーも、トゥモロウも、みんないなくなっちゃったってのも、その原因のひとつだろう。

寂しいんだよな、マゼランの中に色気が全くなくなっちゃって。

 

終わった後の特典として、映像シーンを全部チャプターで見る機能は欲しかったなあ。

あのぶっ飛んだラストバトルやエンディングをもう一回見たいけど、セーブデータからやり直さないといけないってのがちょっと骨が折れますわ。

 

全員の配達依頼を済ませてから、卒業としたいけど、なんかモチベーションがしょぼしょぼになってきてる。

次のゲームに行きたいけど、なんか自分の中でけじめがつかないのだ。□

今日の映画 「マンダロリアンアンドグローグー」

 

 

 

がんばりすぎている。

 

映画「マンダロリアンアンドグローグー」を見て、自分が感じたことに最も近い言葉だ。

作り手たちが、がんばりすぎている。

 

「マンダロリアンアンドグローグー」は、Disney+のドラマシリーズ「マンダロリアン」の大成功を受け、満を持して映画化までたどりついた作品だが、ドラマシリーズにあった多くの「スターウォーズらしさ」が抜け落ちてしまっていたように感じた。

 

まずオープニングの、容赦ない圧倒的なアクションシーン。

マンダロリアンが帝国軍の残党をトコトン狩り尽くすが、兎に角マンダロリアンが強すぎて、弱い者いじめのように見えてしまった。

いったい、どっちが悪党なんだと感じてしまうほどに、マンダロリアンが強烈に強く、また容赦がないのだ。

スターウォーズを知らない世代にも観てもらえるものを、という監督の強い思いがかえって空回りしてしまったか。

テレビシリーズのOPを見返すと、どうみてもぼろい旧世代のロボットがめちゃくちゃ強かったり、ミッションを達成はしたものの、ジャワに船を襲われて追跡するが返り討ちにされちゃったり、そういうしょぼさや弱さこそが、スターウォーズらしさだと思っていたが、そういうゆるさやアナログ感のようなものが、本作にはほとんどない。

また、ジャワの要塞とか、タスケンとか、本編とのからみもとんと薄まったように思う。独立したアクション映画のようにすら感じてしまった。古巣を捨てて家出してしまった不良少年のように。ファンとしては、むしろもっと古巣に寄り添っていてほしかったのだが。

2時間にみっちりと物語を詰めようとしたことが、かえって忙しくなり、スターウォーズらしい良い意味での「無駄」を削り取ってしまったように感じた。

 

ジャバ・ザ・ハットの息子のマッチョ・ザ・ハットの登場は良しとして、闘技場にぞろぞろと出てくる凶暴な生物群や、ジャバのアジト地下の巨大なドラゴンなど、新種のクリーチャーも「出すぎ」な感じがした。

そんなに、たくさんでなくていいのよ。

存在感のある奴が一頭いれば十分なのよ。

ぞろぞろ出てくると確かにリッチ感はあるけど、なにがなにやら、で感情移入しにくくなっちゃうのだ。そこもまた、「がんばりすぎていた」。

改めて、クリーチャーは多かったけど、ポンコツロボットがあまり出てなかったな、とも思う。そこにもスターウォーズらしさというか、力の加減がうまくいっていないように感じた。

 

ラストは、マッチョ・ザ・ハットこと、ロッタの連れ戻しをしなかったマンダロリアンと、怒る双子ジャバとの壮絶な戦いが描かれる。

「宇宙の運命は彼らの手にゆだねられた」というコピーだったが、別にジャバとの戦は「宇宙の運命」とはあまり関係がない。

ジャバは悪党だけど、帝国軍の残党に比べたらまだかわいいもので、ドラマ版のモフ・ギデオンのような、周りを不安にさせるほどの帝国の恐怖は、本作にはない。そのあたりも、物語としてもっとやれたのではないかと思うのである。

 

...とまあ、書きたい放題書いてしまったが、このようになったこともなんとなくわかるのだ。

やっと実現した映画化に、なんとしてもおもしろくしたい。という強い思いがあったのだろう。

それがかえって、作品をおもしろくしていたスターウォーズらしさまでもを、削り取ってしまった。こういう結果はいろいろな作品で見て来たし、自分にも心当たりがある。

だからこそ、の次回作に期待したい。

本作は、NintendoSwithchが出る前のWiiUのようなものだ。

これからが、本当の映画版マンダロリアン作りが始まるような気がするのである。

なんとしても、「マンダロリアンアンドグローグー2」で映画としてのマンダロリアンを完成させてほしいと願うのである。□

狂気の瞬間。

 

流されている。

 

21:30。2歳の娘が寝室へ入っていくのを見届ける。

ようやく自分一人の時間を手にれた自分だが、頭は既にビールのことだけを考えている。ビールが飲みたい。飲もう。今日一日、業務と育児を乗り越えた自分に、今こそご褒美を!抗いがたい強烈な欲望が脳を支配する。

だが、ビールを飲んでしまえば、今日というこの一日は「終わり」である。

疲れが蓄積された体にアルコールが沁み込んで、すぐに強烈な睡魔に支配される。

 

市展に向けた新作を制作する。

アトリエの新聞を作る。

二紀会の新聞を作る。

ブログを書く。

映画を観る。

.....幾重にも積み重なったすべきこと、やりたいことが全てアルコールの力で流され、打ち消され「今日もなにもできなかった」で終わってしまう。

そうなることがわかっているのに「あの分岐点」で、ビールに負ける。

ここしばらく、連戦連敗が続いている。

 

そして今日も「あの分岐点」にやってきた。

さあ、自由だ。さあ、ビールだ!

 

強い津波のような欲望に脳が支配され、圧倒的な力で流される瞬間、

頭の中に「否。今日は描く!絶対に!!死んでもだ!!!」と呪詛のような強い言霊を光のように生み出し、瞬間的に欲望を打ち消す方向に大きく舵を切る。

 

それでも、さらに強く、その決心に覆い被さってくる「ビール!」という名の欲望を、もっと上位の次の呪詛「否。否。否。否。今日はラジオを聴く。描けばラジオが聴ける。新しい名曲に出会えるかもしれん」を自分へのインセンティブを乗せ、連打し、「ビール」を押しつぶす。

...........そして「勝つ」のである。

 

自分が欲望に立ち向かい、打ち勝つ瞬間を、文字にするとざっとこうである。

こんな戦いが、いつも頭の中で行われている。

そして、自分はかつてからこの戦いを、自分を押さえつけるこの力を、「狂気」と呼んできた。

この「狂気」のコントロールはすごく難しい。気を抜けば絶対に負ける。気を抜かなくても勝つには、独自の自己コントロール力が必要だと思う。

言い換えれば、(うぬぼれるつもりは無いが)これは「才能」だと思う。

 

これは別に制作に限ったことではなくて、強烈に眠くなった状況で、それでもしっかり歯を磨いて眠るとか、強烈に空腹な状況でありながら、目の前の仕事を片付けるまでは決して食べないようにするとか、日常にもこの「狂気」のコントロールは存在する。

 

最近読んだ「半分論」に書いてあったのは、この「狂気」のコントロールも含まれているように感じた。二者択一の一方を選択するときの瞬間に、著者の狂気を感じたのだ。

 

自分は未だ何もやり遂げられていないが、やり遂げた人の多くは、「狂気」のコントロールができているのではないか、と思うのだ。□

古い人間

 

トイレ掃除の棒がいまいちだ。

 

なぜ、あれほど「掃除ができない形状」なのか。

おそらくあれは、かつての和式便器に合わせてデザインされたもので、以来、洋式の便器に向けたカスタマイズなど一切されず今に至っているのではないか。
いわゆる、先端にスポンジがついた、ただのまっすぐな棒であり、まがったりすることもないから、いくらこすろうが、便器の奥にたまった汚れに全く到達しない。

近いうちにホームセンターにでも行って、いまどきの便座に向けて作られた、新しい掃除棒を手に入れよう。なんてことをずっと考えていたのだが。

 

「バブルーントイレボウル」なる商品が全部それを解決してしまっていた。


便座を開き、この粉末をばさっと便座の中に落とすだけで、膨大な泡が噴出し、一晩おくだけで、掃除が終わっている。
翌朝。便座の中をのぞくと、これまで届かなかった汚れのほぼ全てが消し飛んでいたのである。バブルーン、その便利さに驚愕する。

 

トイレ掃除を、もっと快適にやりやすくするために、自分は新しい掃除棒を探していた。だが、そもそもアプローチが違かった。
自分は「トイレ掃除=掃除棒」という思い込みから解放されなくてはいけなかった。
世界には「ただふりかけるだけ」という、これまでよりも楽で、きれいに、という新しい掃除方法が、圧倒的な便利さで存在していたのだ。

 

「トイレ掃除は掃除棒でしなくてはいけない」という思い込みの呪縛から抜け出せなかった自分。

そんなふうにして、実は、世のなかは、もっと便利で楽に過ごせる手段がたくさんあるのかもしれない。むしろその手段に、とっくに世界は置き換わっているのだが、自分だけが取り残されているのかもしれない。

 

古いのは、掃除棒ではなくて、自分の方だった。自分は古い人間だった。

 

もっと世界を見よう。置いてけぼりにされてはいけない。□