「練習」には、成功も失敗も無い。

成功や失敗があるのは「本番」だけです。

長い制作期間がちょっと落ち着いて、ここ数日「練習」をしていましたが、もう耐えられません。

どれだけ時間をかけても「練習」は成果にならない。やっぱり僕は成果のでる「本番」がいい。

これは一体なんのための時間なのか。つまり、ただスリルがほしいのです。

発表する。誰かに見せる。そう決めた時、一気に噴き出してくる緊張感。
はずかしいものは見せられない。みんなに楽しんでほしい。
そんな虚栄を少しでも現実に見せかけるために、背伸びをします。無茶をします。それが「本番」です。
ちょっとした見苦しいことをしてでも、良く見せようともがく。そして結果が出る。
成功や失敗は関係はありません。結果を出すことに取り組むことが、なにかを前にすすめている。そう思います。

「作品を作りたい」

今、ただそう思います。ただそれだけです。
練習ではなく、作品を作る。やっぱりここに戻ってきます。ここがぼくの巣です。□

コロッケ!!

仕事帰りに毎日立ち寄る駅前のスーパー。

その隣に小さなコロッケ屋さんがある。

毎日無意識にスーパーに吸い込まれて、買い物を終えて店から出てきた後にその存在を思い出すのです。「コロッケを買いたかった!」と。でも手にはもう今晩の食材となる肉やら魚やらを買ってしまっている。コロッケはまた今度........といつも買えずにいたコロッケ屋さんです。

個展の制作をしている時期は、仕事から帰ったらすぐに制作に入っていた。
制作前に食事をしてしまうと眠くなってしまうから、どうしても空腹の状態のまま制作を続けなくちゃならない。そんなスタイルも長いので、だいたい慣れているんだけど、玉にどうしてもお腹が空いてしまうことがあります。ちゃんと食べるのは後にしたとしても、今、何か、少しでもお腹に入れておきたいと、体がつよく訴えてくることがあるのです。
そのとき思い出したのです。あのコロッケ屋さんを。

牛肉コロッケ。チーズ入りコロッケ。メンチカツ。クリームコロッケ。牛筋煮込み入りコロッケ..........と、数種類がラインナップされている。1個からでも注文が出来て、その場であつあつに揚げてくれる。
その日はお試しということで、ベーシックな牛肉コロッケとチーズ入りコロッケを1個ずつ買って帰りました。
自宅に戻って制作前に、チーズ入りコロッケをほおばってみる。

.........................う、美味いっ!!!!!

永い間、体が求めていたものがようやく今初めて受け入れられ、満を持して体全体に浸みわたっていくような美味さであった。(大袈裟)
その後、制作はぐんぐん進んだのであった。

以来、ぼくはこのコロッケの常習犯となってしまったのである。

世の中には「とんかつ好き」とか「コロッケ好き」というファンがいてテレビやら雑誌やらで何かと熱いこだわりが噴出しているようだけど、ガッテンしました。
美味いですわ。とんかつも、コロッケも。間違いなく、これは日本遺産ですね。

またすぐに次の制作の締切が来ます。そのときに向かって、コロッケ食べてがんばっていきたいと思ってます。□

運の膿

悪いことが続いています。

こういうことはたまにあります。

あれ?
あれれれ?
あれれれれれれ?
あれれれれれれれれれれ??

...........てな具合で悪いことが連鎖的に起こるのです。

1つの歯車が何かの拍子でずれて、一瞬持ちこたえたか?と思えたようでも、やはりそれが引き金になって全てがじわじわと崩れていくような。
時間が過ぎて、改めて今を振り返ったとしたら、きっとそれらのどれもが大きな問題ではないのかもしれない。でも、今は疑心暗鬼の絶頂になってしまっていて、どうでもいいことも「悪いこと」にとらえてしまうし、次に起こることも「きっと悪いに違いない」というようにマイナス思考の準備をしてしまっている。

なにか理由もなく重なる偶然をぼくらは「運」と呼んで、理屈を超えたものを見える化しようとしている。

こういうとき、僕は、棚卸しの時期が来た。とそれらを肯定し、受け入れることにしている。
4年に1回の閏年で1日の補正をするかのように。
きっと何か膿のようなものがたまっていて、それらを棚卸ししなくてはいけない時期なのだろう。それならばこのときに全ての膿を出しきってしまうのがいい。実際、これを乗り切ってしまうとまた元に戻るんです。いつも。

あまり占いとか信じてはいないんだけど、こういうことが定期的に来ると、あながち「運の膿」の考え方も間違いでもないのかもしれない。ということも、定期的に考えたりしてます。□

僕は雑草。

人間って、いつなんどきでも「うぬぼれたい」んだね。

いつもどんなときでも「うぬぼれる」チャンスをずっと待っている。

うぬぼれる姿というのは、みていて本当に残念なので、僕は決してそんな姿をみせてはいけない。といつも戒めています。
「僕は雑草。僕は雑草。僕は雑草。」などと唱えていたりするんだけど、でも他人から改めて「お前って雑草だな」とストレートに言われたりすると、ガクッと落ち込んでしまいます。
落ち込むということは、僕は未だ僕に期待しているんでしょう。
口では「うぬぼれない」と散々唱えてみても、やっぱり頭では「うぬぼれたい」と無意識に願ってしまっている。
この欲望は一生無くなることは無いかもしれない。それが人間なのかもしれない。
それでも、誰かの痛い本音が刺さったとしても、それを気にも留めないもっと純度の高い雑草になれるよう目指していきたいと思っています。

僕は雑草です。□

手で見る

奈良桜井市の阿倍文殊院をおとずれた。

悲願の大国宝・渡海文殊菩薩群像との対面です。
800年ほど前の鎌倉時代に快慶によってつくられた大傑作です。
本尊文殊菩薩像はなんと7メートル!圧倒されました。やっぱり本物はすごい。

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いつものようにスケッチブックを取出し、描き出した。
寺によっては、スケッチ禁止というところもあるけれど、許してくれるところではなるべく手を動かすようにしている。阿倍文殊院はやさしい。

普通の参拝客は10分くらいで参拝を終えるけれど、僕の参拝は30分~60分くらいかかります。
僕は描く。つまり「手で見る」からです。
目は、表面をなめるだけで、実は細部をほとんど見ていません。
仏像の表情や、手の上に載っているもの。細部の丁寧な彫り込み。
手を動かすことによって、初めて気付くことがある(その方が多い)。
また、仏師が仏像を彫った過程を、追体験することもできる。
少しでも手を動かしてようやく「じっくり見られたなぁ」という気持ちになります。
逆に手を動かさないと、どうしても見た気持ちになれません。記憶力も高い方じゃないから、すぐに忘れてしまうし。
手で見ると、記録としても残るから、あとでもう一回眺めたりもできるのです。

我も忘れて、つい30分ほど没頭してしまってから「しまった!」と気づき、おそるおそる後ろを振り返ったら、先生がさらにガチで描いていて「スマンもう10分ほど待ってくれ」と言うのです(笑)。描かない人がいたら、さぞかし「付き合ってられんわ!」となるでしょうね....。

渡海文殊菩薩群像は、2018年屈指の出会いとなりました。

「会いに行く」というのが好き。□

 

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文殊菩薩様を引率する善財童子がチャーミング。

 

体得

20年制作を続けてきて、つど何かを「発見」することがあるのだけど、そんな発見の1つ1つは、20年前にとっくに誰かに教えられていたことだったりします。

答は全て、とっくに目の前にあったりするのですね。言葉として。

例えば「もっと一生懸命やれ」とアドバイスを受けたとき、「わかりました!」なんて答えるんだけど、「一生懸命やる」とはどういうことか、どれくらいやることが一生懸命なのか、なんて実は言葉では全然伝わっていないのですよね。

言葉づらの意味はわかるから僕らは「わかりました」と答える。
でも本当にわかるのは体験してからなのです。本当のことは体で知っていかなくてはならない。

つまり、それは「発見」というよりも「体得」ということなのでしょう。

だれかが言ったことを「わかりました」なんて気安くわかった気にならない方がいい。
「まだ未体験なので、これから体得します」と受け入れるのがいいのかもしれない。

精度は少しずつあがってきているとは思うけど。「一生懸命やる」ってむずかしいなぁ。□

床屋

床屋に行ってきました。

目を閉じて髪の毛がシャキシャキと落とされていくのを感じるとき、僕の中にある余計な雑念のようなものも一緒に落ちていってくれるようで気持ちがいい。

「シャキシャキ」と書いたけど、今日の床屋さんは、ほとんどバリカンで僕の髪を切りました。だから厳密には「ジャリジャリ」なんだけど、やっぱり床屋といえば「シャキシャキ」がいい。

はさみを使わずに、機械が僕の髪の毛を切っている。

ふと思ったんだけど、もしかしたら、この先の未来は、もはや僕の髪の毛は全てロボットが刈っているのかもしれない。
AIだ、ロボットだ、ということが世の中のトレンドとなっている昨今では、それはもう「もしかしたら」ではなくなっている。

床屋の完全自動化....。
なにかが胸にちくっとささる。
これも時代ということばで受け入れていくしかないのだろうか........。

シャンプーの間、そんなことを考えていたら、突然(!!)お湯がとまった。
店内のそこここで「あれ?!お湯が出ない。ボイラーが壊れたっ」という小さなどよめきが聞こえてくる。
混乱する床屋さん。謝る床屋さん。
シャワーからちょろちょろと流れ出すわずかなお湯で、なんとかシャンプーを流し落としてもらった。
小さなトラブルだったけれど、なんだか笑えてしまった。

まだまだ床屋はロボットには無理なのかもしれない。
やっぱり床屋には人情も大切だよね。□