御破算

小さな寂しさと大いなる希望。

小さな希望と大いなる寂しさ。

春はいつも、そんな複雑な思いが一人一人の心の中にわだかまって、錯綜する。
そしてそんな心の隙間に桜吹雪が春の風に乗って流れ込んでくる。

これまでの人や社会との関係を断ち、新しい人や社会を受け入れる、
一般的に、正月とは異なるもう一つの御破算のチャンス。だけど、個人的には2018年度の春は、組織が創業100周年を迎えたことなどもあって、一般とは異なる別の印象を残している。

正直、変化は怖い。今の仕組みや、やり方のままで、なんとか人生を逃げ切ることはできないか、など常に僕の中の弱虫が、僕に誘惑をささやく。
世界はいつも動いていて、ぼくらを動かなくて良い安定の場所には、決して置いてはくれないようだ。そんな中を動き、もまれていく中にあたらしいイノベーションが生まれてくるのだろう。

弱虫かもしれないけれど、そんな波に依存しながら、引きずられながら。小さくても大きくても、良いイノベーションを生み出す歯車になれたらいいなと願っている。□

夢十夜 Season2 第九夜

こんな夢を見た。

千葉の祖母の家を訪れたら、祖母の祖母が持っていた宝物が出てきたと騒ぎになっている。
ふと見れば、知らぬ間に祖母の家は博物館のように様変わりして運用されていた。
館長らしき人が、祖母が持っていたとされる4号サイズくらいの仏像のアップ写真を見せてくれたが、裏返すと目の部分に穴が開いていて、そこがのぞき窓のようになっていた。当時、祖母の祖母が屋敷に訪れた国賓を隣の部屋から覗いたとされる貴重な資料だという。写真の裏をよく見ると穴があいているだけでなく、いろいろな走り書きのようなものがされていて、それも歴史的にとても貴重なものだと説明を受けた。説明の内容はよくわからなかった。
この博物館に保存される、もう一つの大きな資料としてモノクロの映画を1本見せてもらった。
古い時代を生きた一人の青年が主人公で、時代の波に流されながらも激しく立ち向かい、青年は物語の終りに向けて死んでしまうのか、それとも生き残れるのか。という物語だった。
古い作品とは全く思えない、まるで自分のことのようにリアルで深い映像だった。
ラストシーンは、世界の果てまでやってきた青年が、わらの草むらにどさっと仰向けで倒れ、煙草をふかしてニヤリと嗤って終わった。
自分は、これまで見たどんな映像よりも強烈な印象を残ったと感じている。これからの自分の人生にこの映像がきっと大きな影響を及ぼすことを確信している。
館長に深く感謝をし、博物館を去った。□

佳境

3月も終わる。

個展制作がいよいよ佳境だ。

制作が佳境に入ると、本当に描くこと以外何もできなくなる。

それまでは今日はもう十分だ、と筆をおいていたのが、佳境になると、そこから更にもうひと仕事しなくてはならなくなる。目の前にある絵を今日中に完成させなくてはならなくなる。本当に逃げ場がなくなってしまう。なんとしてでも、目の前の絵を描ききらなくてはならない。

「なんでこんなことになってしまったんだ.......................。ゲームした~い!映画みた~い!!マンガ読みた~い!!!」

毎年そんな弱音を吐く。

個展終わったらゲームやりまくったれ。映画死ぬほど見よう。漫画吐くほど読もう。
そんなことをぶつぶつ言っている。

だけどその後、個展が終わり解放されて、いざ時間に余裕ができたときでも、映画などせいぜい1~2本くらいみたら充分満足してしまうし、ゲームなど1時間くらいやれば、そして漫画など単行本の半分も読んだらすっかり疲れてしまう。
僕にとって「やりまくる」「死ぬほど見る」「死ぬほど読む」ってこの程度のことだったのです。

無い時間を工夫してだってその程度のことはできるような気がする。

たぶん、やりたいのはコンテンツをたくさん消耗することではなくて「一切追われることなく開放的な気持ちで」のんびり過ごしたい、ということなのだろう。
お酒を飲むのだって、自宅でもできるけど、そんなときだけせめてちょっとこじゃれた居酒屋で飲みたい。というくらいの差なのだろう。

映画も見れないし、漫画も読めないし、ゲームもしばらく封印だけど、ひとまずもう少し頑張ってみます(終わったら祇園の鮨屋に行こう)。□

遭難

絵を描くことでいちばん苦しいのは、設計書どおりに描いたはずなのに、その絵がちっとも面白くなかったことに気付いてしまったとき。です。

海のかなたにある宝島をめざし、大航海を乗り切るためのありとあらゆる食料、道具を舟につめこんで、計画を綿密に立てて出発したものの。大海原のど真ん中まで来て、全ての食糧が尽きて、全ての道具を失ってしまったような気持ちです。いわゆる遭難です。

絵を完成させるということは、このどうしようもない絶望から、なんとか手を打って目指していた宝島(かそれに近い場所)へたどり着くためのサバイバルのようなものです。
その絶望が最近、たまにではなくってほとんど1枚描くごとに、毎回やってきているような気がしていて。そして気付いてしまったのです。..........これが絵を描くということなんだ。

計画通りに描いて計画通りにできる絵は作品ではないのですね。
ちょっと過激かもしれないけど、誰でもできてしまうような作品は、見る人にとっての価値になってくれない。今の僕の絵が価値になっているとはとても言えないけど、この遭難するような感覚が一層強いときほど、作品の価値は高くなっているのではないかというような気がしています。
尊敬する他の作家の先生たちも同じ気持ちで描いているのではないだろうか。10回か20回くらい死ぬような遭難を乗り越えて絵を作っているように思います。

個展制作は枚数をたくさんかかなくちゃいけないから、これが同時に20回くらいやってくるんです。
どうです?いかれているでしょう?
今改めてそれを言葉にしたとき、自分をつくづく変態だと思ってしまった....。

そうです。変態なんです。もっと変態にならないといい作品は作れないのだ。もっともっと変態で行こう。(すみません、今日の僕、相当ヘンですね。あ、いつもかな)□

スリル!

個展の案内状の配布を始めている。

まずは職場の人々に片っ端から配布した。
実際に会場に来てくれるかどうかは問題ではない。
自分がこのような活動を続けているということを認知してもらえるだけでいい。

それでも、もしこの中の誰かが来てくれることがあったとしたら。
それを考えると、気が引き締まる。
だれもかれもとても忙しい日々を送っている。
その貴重な時間をこじあけてはるばる会場に来てくれるとしたら。
少しでも来てよかったと思ってもらえるような作品をださなくてはとてもとても申し訳ない気持ちになる。
はずかしい作品は絶対に出してはならない。

このプレッシャー。このスリル。

個展を始めたころはパニックになっていたりしたけど、回数を重ねてきて、ようやく楽しいと思えるようにもなってきている。

開催まであと24日。まだまだ峠越えが続きますがなんとか10点満点の着地を目指してもがきまくります!□

 

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平行世界の交わり

歓送迎会のシーズンである。

僕らの組織でもこの春に大きな組織改変が行われた。
これまで一緒に仕事をしてきたわが部の、1つの課が解消されて、メンバーがそれぞれの部署へ異動していく。

楽しい飲み会だった。
飲み放題の酒がおそるべき速度で消化されていく。
最後の最後にふらっと主賓の課の課長が僕の前の席に座った。

........?

正直、仕事でご一緒したことはあまり無くて、一瞬とまどいを感じた。
何を話そうかなと考えていた刹那、課長から衝撃の話が繰り出された。

「妻がお世話になっております」

.........!..........妻って誰?

ゆるく酒が回る脳に、鈍いボディブローのようなパンチがあびせられて激しい脳震盪が起こる。これまでの人生で出会った全ての人間の履歴帳への、奇跡的な速度での脳内検索行われて、即時に答えが割り出された。

「もしかして!?」

なんと、僕が所属する絵画団体でお世話になっている女流作家の旦那さんが、その課長なのでした。

ノックアウト。

世界って狭いですね。
技術畑と芸術畑は永久に相容れないであろうと思っていました。
僕はその永久に接点を持ちえない二つの平行世界を、行ったり来たりを繰り返しながら、二刀流として生きてきたつもりでした。
でも「平行世界」なんてないのだな。
平行と思われていた世界も、いつかは必ずどちらかからの歩み寄りがあって交わりが生まれる。交わらざるを得ない。交わらずには済ませられない。
全く関係のないと思われた世界も、どこかでつながり交わっているのです。

技術畑の人々とは芸術の話はできないものだとずっと思っていました。表層の社交辞令的な接点はもてたとしても、本質ではつながることはできないと。でも、今改めてそれを疑わなくてはいけない気がしています。
世界は狭いけど、世界は思った以上に広い。
固定観念に縛られず、いつも柔軟に生きて行きたいものですね。□