バーフバリ!

応援上映」って何?

はじめて聞く言葉でした。
「携帯・スマホはOFFに!上映中の会話はご法度!」というのが映画館での鑑賞マナーとして常識になっているけれど、それをくつがえす「応援上映」たるものが登場しているという。
インド映画の「バーフバリ」が空前のブームになっていると聞きました。
なんでも映画を鑑賞しながら、スクリーン中のキャラクター・バーフバリに、楽器やら光やら駆使して声援をおくりながら、鑑賞するのが人気のようです。
2015年、2017年に公開された1と2がじわじわと人気をあげて、今では空前のムーブメントになってしまったようです.

 

 

以前から、僕の耳にもいろいろなところからこの作品のうわさが飛んできていて、これはしっかり観ておきたいと思いました。
ということで、僕も1と2を一気に見てしまいました(ビデオでしたが)。
これは、確かに、すごい映画です。
よくよく分析してみると、アメリカから日本、そして香港、中国など世界でこれまで作られてきた全てのエンターテインメントが分解されて、そのすごい部分だけを丁寧に編み直して、更にインド映画独自のミュージカルが組み込まれているのです。

ベン・ハー」や「レッドクリフ」のようなスペクタクルも感じますし、「マトリックス」のようなスローモーションを多用した映像演出もあり、「少林サッカー」のような思わず吹き出してしまうような誇張したスポコンもある。そしてTVゲーム「無双シリーズ」のような爽快アクションもある。
女の子を口説き落とすシーンも「うそだろ!?」と突っ込みを入れざるを得ない気障な演出。
とにかく黙ってみていることが難しい。この「突っ込みを入れたくなる」それでいて「彼らはいたって真面目」なところが、このムーブメントに火をつけているのかもしれない。

3Dから4Dを経て、応援上映へ。
映画の観方、楽しみ方もずいぶん変わってきたなぁ。

あの濃ゆくて暑苦しいバーフバリが、ラストにはカッコいい王子様になってしまっているのがびっくりです(笑)。興味ある方は是非ご覧あれ。

 

バーフバリ!バーフバリ!!バーフバリ!!!□

断捨離断念宣言

「写真、撮らないの?」

「写真は撮りません。なるべく目で見て、頭で覚えようとしています」


以前アトリエの仲間たちとスケッチにでかけたときの、一人の女の子の言葉が、今でも印象に残っている。

僕はモノに依存する生き方をしている。
記憶力がいい方ではないし、頭の回転も速く無いから、世界が発信する情報に追い付いていけない。さらに執着心も強い。
だからだろうか、すぐに何かを買いたがるし、持ち帰りたがる。

モノに依存するのは、処理すべきものをその場で解決させず(できず)、かかえこんでしまうからかもしれない。
おかげで我が家は、漫画、CD、アニメのDVD、雑誌、そして自分が描いてきたスケッチや作品.........ともかくも、多くのモノにあふれかえって大変賑やかである。
さらに、かかえこんだ情報たちの受け入れが終わっていないうちに、また次の情報が目の前に現れて、また持ち帰ることを余儀なくされる。したがって、どんどんモノがあふれていくのである。
なんとかしたいとは思う。けれど、もうこれが僕の長い人生で作ってきたスタイルなので、今更、持たない生活に切り替えることもできない。

頭で覚えられる人が、うらやましい。

モノは墓場にも持っていくことはできないし、生きている間も、全ての自分のモノを外に持って出歩くことなんてできはしないのだから、できることなら、自分の体一つに全ての情報が収納されている姿が望ましいと思う。そうしたらノートも手帳もいらない。全て自分の頭と共に、出張すればいいだけだ。

でも、逆に全てを頭に入れて持ち歩ける人なんてどれくらいいるというのだろう。
持たない生活を選んだ人も、全てのうちの一部だけを頭に入れて、ときには忘れるというスタイルを受け入れているだけなのではなかろうか。
記憶力や頭の回転なんて実は、持つ事と持たない事とは全く関係がなくて、やっぱり本人の割り切りというか覚悟のようなものがあるか、だけなのかもしれない。

「世界を驚かせるような何かをつくる」という夢を選んだ時、それはそれは頭では到底収納できないような、気の遠くなるようなインプットをしなくてはならない。自分を驚かせたモノたちを身近において、それを超えるなにかをうみだし、もがく日日です。持たない生活はやっぱり難しいかもしれない。

でも、制作もちょっと落ち着いたころには、いつも用が済んだものは処分をしたいと思っています。そんなぼくでもほどほどには、捨てます。

みんなは断捨離、どう?□

関西二紀展65

関西二紀展の陳列日。
出品を始めてから10年、陳列を休んだことは無い。
今年は陳列当日の朝、北大阪大地震が発生して陳列が翌日に延期となり、僕は初めて陳列に欠席した。
地震のことは割愛するけど(以前のブログをみてください)、とにかくもまあ、おそろしくゆれました。部屋の中がこなごなになりました。ひどい地震でした。
地震のあと、会った数名の知人の方々は、口をそろえて「阪神大震災のときよりも揺れは大きかった」といいます。たぶん、嘘をついているわけではなくて、ほんとうにそれほどはげしく揺れたのでしょう。

関西二紀展の陳列には立ち会えなかったけど、陳列された作品はきちんと見ておきたいと思い、会場に向かいました。

奨励賞。

いろいろ見苦しい舞台裏がありますが、表向きには何か、華やかな賞を頂くことが出来ました。
絵は、会場に入ってすぐの場所、思った以上にとてもいい場所にかけられていました。
それでも素直に喜びを感じられてはいません。
奨励賞という賞は、僕の中での目標の「境界」だったので、受賞の連絡を受けた時、未だにぎりぎりを行ったり来たりしている自分に失望して、いらいらしました。
それでもまぁ、会場で作品を見た時、何らかの思いの発信は出来たかと感じたし、自分の今の位置というものを感じることも出来ました。これはこれで一つの成果なのではないか、と受け止めることができたと思います。

関西二紀展は日曜日まで開催中です。
お近くにお立ち寄りの方はどうぞご高覧ください。

次はいよいよ9月の本展です。
関西展の反省を噛み締めて、はずかしくない作品を作りたいと思います。□

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北大阪地震4日目に考えたこと。


2018年 6月21日04時26分 大阪府北部 M2.4 震度1
2018年 6月21日19時13分 大阪府北部 M2.9 震度1

気象庁地震情報を毎日確認している。
大阪の余震周期は12時間以上に開き始め、規模も小さめとなってきている。
火災や津波といった大きな災害はなく、世の中の目はすっかりサッカーW杯に向かっている。
このたびの地震は、「北大阪大震災」ではなく「北大阪地震」として収束しつつある。
それでもまだガスもモノレールも復旧していない。油断はしないようにしたい。


イオンに出かけたらペットボトルの水が山積みになっている。
これでもか!といわんばかりのこのモノの溢れ方に、ありがたさを超えて、なんだか不気味さを感じてしまう。
売る側の「チャンス!」という黒い声が聞こえてきそうな気がしてしまう。
過去の震災時の水の買い占め、転売といった現象の教訓を、売り手としても噛み締めていたということなんだろうと思います。
素直に感謝しなくてはいけないのかもしれないなぁ。


高槻で3メートルのブロック塀が倒れ小学生が亡くなった事件について。
「なぜ教訓をいかせないのか」と報道されている。
過去にも何度も小さな子供が地震で同じような事故に巻き込まれているのにもかかわらず、今回もまた発生してしまった。
教訓はいかせているのだと思う。
.......但し、その事故が起きた場所に限って。
教訓がいかせていないのは、事故を経験していない他の地域ではないだろうか。
北大阪は久しく大きな地震の被害を受けておらず、きっと過去に他の地域で事故が起きた時にも「ここでは起こらない」という思い込み、おごりがあったのではないか。
「身に浸み込ませる」ためには、本当に実体験したり、身体で痛みを感じないことには難しいのではないか。このたびの件が「震災」ではなく「地震」で済んだことに感謝して(まだわからないけれど)、今こそこの教訓を「身に浸み込ませて」いきたいものです。□

3日目

北大阪地震から3日目。

阪神大震災東日本大震災も外からみていた。

その自分が今、外からみられる存在になっている。

報道で繰り返し伝えられる現実とお声がけが、沁みる。

なんだかみじめで、それでもなんだかありがたくて。

とても貴重な経験をしている。しっかりと噛み締める。

余震は落ち着いてきただろうか。未だ油断は禁物だ。□

少しずつ

今朝も地震で目が覚めた。余震である。

今のところ大きな余震はない。

それでも少しでも揺れるとまた大きくなるのでは...と怯え、はっと目が覚めてしまう。

仕事に没頭する。

失恋も、地震も、忘れるためには仕事に没頭するに限る。仕事に感謝する。

いつもはひとりでいることを好む自分だが、今日に限ってはひとりになるのが怖い。

大きな地震を家でひとりで受け止めることにひどく怯えている。

同じ価値観を共有する存在が近くに欲しいのと同じように、同じ恐怖を共有する存在が近くにいるということが、何か勇気を与えてくれるのだろうか。

モノレールは依然、とまったままだ。

遠回りをして帰宅せざるを得なかったが、さらに遠回りしてゆっくり帰宅した。

家にたどり着くと、日本代表がコロンビア代表を破る瞬間に立ち会うことが出来た。

こんなときでも一瞬でも地震を忘れさせてくれるニュースがありがたい。

明日は大雨らしい。ここ数日はまだまだ油断せずに、慎重に過ごしたいと思う。□

 

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警鐘

心のどこかで僕は例外。とずっと思い込んでいたのかもしれない。
でも例外なんてありません。
誰にも例外は無くて、この日本はもうどこにも逃げ場はないのだということを、体で知りました。

 

朝7:58AM。
大きな揺れで目が覚めた時「ここはどこだっけ?」と思った。
大阪では地震の経験がほとんどなかったから、揺れを感じた時に、寝ぼけて東京に自分がいるかと思った。「久しぶりに揺れてるなぁ、実家に帰ってきてたっけ?」と思った次の瞬間。揺れはさらに大きな激震に変わった。

部屋が右に左におそろしく大きく揺れて、キッチンの茶碗やグラスが床に落ちた。壁に立てかけてあった100号から50号のキャンバスが、机の上のデスクトップパソコンが、横倒しに倒れた。
どこかのテレビでいつかやっていた地震シミュレーターとまったく同じ現象が目の前の、自宅の、自室で起こっていた。
これまで経験した震度4とかのレベルの揺れでは無いことを、瞬時に知った。
テレビを付ける。報道が始まっている。震度6であると報道されている。
パニックになっている。
津波は来ないか。逃げよう。
眼鏡が無い。携帯電話も無い。どこかに埋もれてしまった。
余震がこないだろうか。来る前に逃げないと。どこに逃げる?

幸いにしてその後、大きな余震はなく、徐々に頭がはっきりしてくる。

空腹も忘れ、テレビの前に縛られてしまい、気付けば昼を過ぎていた。
近所の弁当屋に行くと、客がいない。営業はちゃんとしているのに。
店員が声をかけてきて「ガスが止まってしまっていて、ご飯が炊けない」と告げてきた。多くのおかずが売れずに店内に山積みになっている。弁当屋も大きな打撃を受けている。

自宅に戻り自炊した。
じゃがいもと玉ねぎのお味噌汁、佃煮海苔とキムチ、そしてごはんをいただいた。
食べ終わった後に、一部の地域で水道水が濁っているとテレビが報道している。
濁り水でコメを炊いてしまったかもしれない。とてもおいしかったが。
近所のスーパーに買い出しに出ると、ペットボトルの水が完売になっている。

ヘリコプターのプロペラがずっと上空の空気をたたいている。
まるでここら一帯が、アウトブレイクの中心になって、監視されているかのように感じる。

関西二紀展の陳列にでかけるつもりでいたが、それどころではない。
列車がすべて停止してしまっていて、身動きがとれない。
やがて、陳列中止のメールが届いた。
急になくなってしまった予定に、途方に暮れる。何でもいいから仕事で時間を埋めたいと思った。でも結局家に縛られ、硬直するだけの一日になってしまった。
テレビでは帰宅難民が続出していることが報道されている。外に出ていたら、僕もあの一人だったかもしれない。


日本の各地で発生していることではありながら、まるで狙い撃ちしたかのように、まさにここで発生してしまったことに、なんらかの「警鐘」を感じざるを得ない。
僕は正しい生き方が出来ていたのだろうか。

明日から徐々に天気が崩れるようだ。余震が来ないことを祈りたい。□