今日のカレー

 

NOMSON CURRY @裏ポンバシ(8点)

 

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久々のスパイスカレー行脚である。

日本橋裏手はなかなかのカレー激戦区である。

11:30開店目指し店舗に行くと3~4組の列ができている。

入口は狭めだが、奥へ行くとなかなか広い。

BackToTheFutureのポスターにマイケルJフォックスとクリストファーロイドの直筆サインが書いてある(本物だろうか)。

メインとなるチキンカレーに、魚出汁のキーマカレーのあいがけを注文。

旨い。またこのスパイスカレーの聖地に戻ってこられた喜びと共に、カレーの美味さを噛みしめた。

デザートに注文した、台湾式氷菓のマンゴー乱舞もまた美味い。

なんだこの食感!という驚き。ラッシーというかヨーグルトのようなもので出来た氷にマンゴーソースがたっぷりかけられている。

スパイシーになった口の中をやさしく癒してくれる甘味である。

カレー行脚、再発進です。□

珈琲と麦酒

 

「朝珈琲に夜麦酒がいいらしいぞ」

 

食堂で昼食を食べていたとき、近くのテーブルからの声が耳に入った。

 

朝に珈琲を飲んで、その日のテンションをあげじっくり仕事に臨み、
夜に麦酒を飲んで、その日のテンションを下げてぐっすり就寝する。

とてもわかりやすい。確かにその通りかもしれない。

そんなことが頭に残っていたのだろうか、先日スーパーで麦茶のパックを買うとき、ふと目についた水だし珈琲のパックを、つい衝動買いした。

実は、珈琲はあまり飲めない。

ちょっとしたアレルギーなのかもしれない。
珈琲のカフェインか何かが、自分にとっては効き過ぎるのだろうか、飲んでしばらくすると、エレベーターに乗ったときのように、耳がキーンとなって、しばらくの間(というかほぼ一日中)耳が聞こえなくなるのです。更に、心臓がどきどきして手が震えたりもするのである。
ただ、珈琲に対する憧れはずっとあって、珈琲店に並ぶ多くの豆やおしゃれなカップをを眩しく眺めたり、こだわりの喫茶店のマスターと珈琲談議しながら至福の一杯をいただいたりする姿に憧れたりしているのである。

インスタントコーヒーなんていっても、最近の商品はどんどん良くなっているから、そこそこ本格的なものが簡単に飲めてしまう。

買ってきた水出し珈琲をコップに1/3ほど注ぎ、3倍のミルクで薄め、ガムシロップを入れ、2時間くらいかけて飲んでいる。それで充分、僕にとっては朝珈琲になる。
それでも、3回中2回くらいは耳がキーンとなるが、気にはしない。

夜麦酒は、前からやっているが、こちらは度が過ぎている。

日々のストレスを忘れるためについ飲みすぎてしまう。むしろ控えた方がいいくらいだ。

珈琲も、麦酒も、健康のための手段としての度を越さないよう、楽しく味わいたい。□

さようなら、トリセツ。

 

ゲームの取説がなくなって久しい。

 

ゲームを買ったら、まず取説をじっくり読んでからゲームを始めるタイプである。
取説もゲームの一部であると思っているし、ゲームはテレビの中だけに映されているから、紙媒体でゲーム画面やキャラクターを見たり、手元に置いておく手段としても、取説というものを大切に思っている。

だけど、いま、取説は全てネットに移っていった。

かつてのファミコンのようなAボタン、Bボタンで操作できるシンプルな時代から、ゲーム機のボタンはどんどん増え、2つから4つ、4つから6つ。

そして今、PS4では10個以上ものボタンがコントローラに備え付けられている。

ゲームの規模も膨れ上がり、クリアまで50時間、100時間を超えるものも普通である。
当然、ゲームの操作方法やシステムも、ますます難しくなっている。
取説の重要性は、これらに比例してますます上がっていくはずである。
だのに、それとは逆行して、取説をなくす、取説はネットで開示する。という時代になった。

ゲームはダウンロードで買うことが主流になっている。買うのはゲームのみで取説はついていない。

パッケージでも販売されているが、取説は入っていない。
パッケージをあけると真ん中にちょこんと小さなゲームカードが1枚入っているだけである。なんともさみしいものだ。
パッケージ販売は、やり終わったゲームを中古に売るための手段として残されているようなものだ。

ということで、取説はネット上におかれる時代になったが、メーカーが自社サイト上につくった取説は、多くは取説としての要件を満たしていないものが多いように思う。
操作方法はもちろん、ゲームのストーリーの概要、画面構成とそれらの意味、キャラクター説明、そしてちょっとした裏技。これらを詳細に書いてもらう必要がある。
ネット上の取説には、ざっくりしたことは書かれているが、画面の中に表示される小さなアイコンの意味とか、シーンによっておこる特殊な操作の仕方、システムの詳細など、細かい点はほとんど書かれておらず、知りたいことが手に入らない。

だが、そこは、第三者が作る攻略サイトにゆだねられている。
別に公式というわけでもないのだろうけど、メーカーとしてもファンが勝手に作ってくれるであろう攻略サイトに細かい説明をゆだねてしまい、あまり取説づくりに時間をかけていないように思う。

結果、プレイヤーは、メーカーの取説サイトはほとんど見ず、ネット上に転がる攻略サイトやら動画やらの様々なユーザからの情報を自ら集めながら、なんとなくゲームのシステムに慣れていくというのが主流になった。なってしまった。


さて、前置きが長くなったが、「モンスターハンターアイスボーン」をやっている。

2ndGや3rdといった携帯ゲーム機向けのモンスターハンターシリーズには、取説があったが、以来、モンスターの数が増え、システムも複雑になり、今から思うと取説時代の末期だったのだろうと思う。
あの時代の取説が今も続いていたとしたら、中綴じで200ページ規模の取説になっていたのではないかと思う。作るのはとても大変だろうし、パッケージには収まり切れないから、別冊付録にしなくてはなるまい。
(それでも今もそれが欲しいし読みたいと思っているが)ネットにゆだねられたのは時代として仕方がなかったのかもしれない。

取説の喪失は、個人的にはとても残念なことなのだが、大きくシステムの変更がされたこの度のモンスターハンターアイスボーンを手探りでやりこんでいく中で、骨格だけをなんとなく理解してプレイしていたゲームに隠された膨大な情報が、ちらりちらりと見え始めることに快感を感じ始めている。

この画面のアイコンはなんだ、と知らないことを調べて、そうだったのか。という発見が小出しに出てくること。
そんなギミックが、1つ2つではなく、多数あり、それらがゲーム全体を覆っていることに、新しい発見のわくわくがあることに気づき始めている。

オンラインで一緒にプレイしている友人が、モンスターにまたがって移動をしているのを見て、どうやってやるのか。と。
調べてみると、マップ上に隠れて生きている獣人という生き物たちの、お困りごとを解決してあげていくことで、獣人とオトモダチとなって、モンスターにまたがるというスキルを教えてもらえるというのである。
こんな大切なことすらも、取説がなくては知るよしもない。偶然友人らの口コミから手に入れた情報なのだった。

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なんともすごい時代になったものだと、去っていくかつての取説時代を、懐かしく、切なく思いながらも、新しいこの時代に順応している自分を、なかなか楽しんでいる。□

今日の料理

 

ラッポッキ

 

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なんだよ、ラッポッキって?

別に買うつもりもなかったけど、音の面白さに衝動買い。

韓国の料理みたいです。

袋を開けると、

 

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このとおり。

さっぱりわからない。韓国ですねえ。

餅の入ったラーメンみたいな?

完成品のイメージも持たずに作ってみたら、こんなかんじ。

 

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甘い!?

と思った刹那、

辛い!!

という相いれないものが共存する不思議な味。

韓流。というのでしょうかね。

甘さは最後までのこるけど、やっぱり辛いわけです。

唇が腫れ上がる前に大急ぎで胃の中に流しこんでいて思い出しました。

以前、友人とカジノ目当てに韓国旅行をしたとき、出てきた料理がどこもかしこも全部辛くて、胃がもたれて、わずか3日でこりごりしてしまったことを。

なんとなく、入れたほうれん草が辛さを中和する絶妙なアイテムになったけど、なかったら完食できなかったな。

やっぱり、僕は、辛いものが苦手です。□

やさしさって。

 

「やさしそう」ってよく言われる。

 

そうなのかもしなれい。と、思う。が、

そうでないのかもしれない。と、思う。

僕という人間は、できる限り対立を避けたい。

対立が生まれそうになった時は、相手の大切にしているものを、なるべく壊さずに、自分にとっても、あまりしんどくないやり方がないかを考える。

折衷ポイントというか妥協ポント、その局面を切り抜ける適切な言葉を探す。

だけど多くの場合は、そんなポイントが短時間で見つかるはずがない。長い沈黙。

結局、僕の方が譲歩することが多い。7~8割は相手の希望をかなえ、2~3割は自分の希望を差し込む感じだ。

本音を言えば、かなり無理をしているほうだと思う。だけど、それ以上に争いを避けたいという思いがあるので、つい無理をしてしまう。痛みが積もっていってしまう。

 

だまっている。というのは一つの、やさしさなのだと思っている。

本音を言うと「そんなことできないよ」とか「我慢してくれ」とか「それは駄目だ」ということになるんだけど、とてもそれは口にはできまい。

本当のことだから。と、なんでも口にしていたら、人類はたちまち争いを始め、すぐにも核戦争やらが始まって世界なんて終わってしまうだろう。人間、本音がありながらも、たてまえがあって、言葉を選んで譲歩するからこそ、なんとか上手に生きながらえているのだと思う。

沈黙は、僕が、なんとかその場を争うことなく乗り切りたいという悪あがきの時間であり、引いては世界平和を願う、ささやかな抵抗の時間なのだ。見た目はぼーっとしているようであっても、頭の中は世界平和を願い、120%で必死に動いているのである。優しく受け流して欲しい。

 

本当は明らかに欠点なんだけど、そこには触れず、いいところを探していいねと伝え、欠点を黙っていてあげる。という、やさしさもある。

僕はあまり人の欠点を指摘したりしない。

だけど、駄目なところを黙っていてあげることは、本当にやさしさなのだろうか。

痛みは伴いながらも、あえて「駄目だ」といってあげることは長い目で見ればやさしさのはずである。僕が選んでいる手段は、目先のやさしさであって、また、争いを避けるための手段であって、長い目で見れば、その人を悪くする嘘のやさしさなのかもしれない。

対立を避ける、目先の嘘は、やさしさなんてものじゃないかもしれない。

やさしさってなんだろう。ますます難しくなってきた。□

悪口について

 

悪口というのが苦手である。

 

誰かの悪口を聞いていると、まるで自分に言われているかのように聞こえてしまい、申し訳ない気持ちになる。

彼は、本当は僕自身を批判したいのだけど、直接は言えないから、誰か別の人の悪口を言うことで、僕のことを批判している。そんなふうに聞こえてしまう。

悪口の内容に共感することがあっても、一緒になって悪口を言うこともできない。

言ったとたん、孫悟空の緊箍児(きんこじ)のようなものが頭を締め付けて、こう語りかけてくるのである。「そういうお前こそ、どうなんだ」。

悪口を、聞くことも、言うことも、僕にはできない。

悪口をいう人は、僕に賛同を求めているから、僕も「そうですよね」と答えてあげたいが、そういったとたん、僕の頭についている、見えない緊箍児(きんこじ)が頭を締め付け、無理に作ったいびつな笑顔が更にゆがむ。それを見た彼は「つれないやつ」と冷めた目で僕を見返してくる。

そんなことで、悪口が聞こえる場からは、金輪際、一生涯、近づきたくないのだけど、逃げるほどにそういう輩が僕の周りに寄ってくるような気がしている。

悪口を言う人間は、自分の主観から見た相手の非常識な言動の否を認めさせ、謝らせたい、更生させたい。だけどそこに行きつくまでには、壮絶な戦いを伴うし、あわや自分にとっての生活基盤をゆるがしかねないから、悪口という代替手段で憂さを晴らすまでにとどめる。または、本当に戦うつもりがあるのなら、賛同者を集め、一対多で戦える体制を整える。

 

要は、彼は怒っているのである。

確かに怒られる方の側に、否があるのかもしれない。だけど僕は、怒っている側の人を見ると、怒られている相手よりも、むしろ怒っているその人に問題があるのではないかと疑ってしまう。

怒っている姿は醜態だと思う。あなたは人のことを怒るだけ完璧なのか、あなたは神か。と心の中で言い返している。そんな言い方を自分がされたらどう感じるのか、言っている内容そのものが自分にあてはまらないと言い切れるのか。そこまで考えたうえで、発言しているのだろうか。

言い切れる。考えている。という人ならば、まさに「神」なんだろうけど。

神であれば、世界中の誰もが味方のはずです。だけど少なくとも僕は彼のことを神とは思えないのです。

 

中島みゆきの名曲「Nobody is rigtht」が思い出されます。

 

誰もが「自分も、誰も、正しくない」という気持ちを持てていたら、世界はずっと平和なのかもしれないよなあ。□