素朴であること

massy2007-03-04

7:30AMに福江島を出発し、8:00AMには上五島に上陸した。


「寂れている.....」


それが上五島の第一印象であった。福江島長崎市内に比べて寂れている感じはあったものの観光客を誘致しようという意思はあったように思う。それに比べてこの上五島の寂れ方は...!?「サイレンス」をとうに超越して「寂れている」のである。それ以外に私はボキャブラリーを持たない。そんな島であった。


例のごとく上陸後早速レンタカーを借りたのだが、その際担当のおっさんがいきなり私に言った。「本日シケが予想されていて、もしかしたら長崎に戻るフェリーが欠航となるかもしれません。気をつけてください」


上五島から長崎行きのフェリーは1日に3本しかなく、1本はさっき私がこの島に上陸したときのやつである。それはもう長崎に向かって行ってしまった。残るのは13:00の便と17:00の便のみである。これが欠航したらこの島に1日留まることになる。さらに明日になっても天候によっては欠航が解除されることも保障はできないとのこと。


いきなり暗雲が立ち込めた。いきなりなに客をおびえさせているのだ、こいつは。と憤りつつも、これは現実なのであった。しかし、今上陸したてで何もせずに港で時間を潰すほど自分は暇ではない。何かあったら連絡されたしと言付けて天主堂めぐりは強行することにした。
いきなり脅かされはしたものの上五島の天主堂は、福江島をさらに上回るほどの美しさであった。これらの天主堂はもはや観光という目的から完全に切り離され、村人の祈りのためのみに存在していた。現に最初に訪れた福見天主堂は畑と民家の中にひっそりと立っていてなんら観光地の匂いはしない。ちょうど私が訪れたとき、村人たちが次々と堂内に入って行き、お祈りが始まるところであった。外部からきた私は完全に異物であった。しかしこの生活感の中にたたずむ素朴さや、畑から見渡す天主堂とその向こうに広がる静かな海原の美しさとが自分を完全なる異世界に誘った。他の天主堂も全て同じであった。福江島で見た天主堂ではまだ2〜3組の観光客が来ていたが、ここにはもはや観光目的の者など誰も来なかった。


丁度3つ目の教会を回ったあたりで魔の電話が鳴った。出てみるとやっぱりレンタカーのおっさんであった。「やはり予想通りシケで夕方の便が欠航となったようです」とのこと。ただ幸いにも欠航は17:00の便のみであり、13:00の便は欠航にはなっていないようであった。私はやむなく途中で天主堂めぐりを断念して港に戻らなくてはならなくなった。このアクセスの悪さ。しかしこれがかようにこの島の天主堂や村人の営みを観光地化から守っているとも言えるのである。


観光地化とこの素朴さは相反するものである。これだけ強く見所のある場所であればやりようによっては充分観光地になるだろうと思う。ただその瞬間、この村人の生活の場からは切り離され、素朴さや本当の美しさは消えていってしまうのだろう。


フェリーが1日に数便しかないこと。島唯一の空港が閉鎖されたこと。カーナビにすら情報が登録されていないこと。食事する場所がないこと。移動手段もほとんどないこと...等々。これらの不便さが皮肉にもこれだけの美しさを醸し出し、かつこの場所を守っているのである。


美しいものを守るということは非常に難しいことであると感じた。□



#写真は大曾天主堂(上五島の天主堂の一つ)