★石こうデッサン

 

研究生の石こうデッサンにアドバイスをする機会があった。

 

石こうデッサンをする研究生は久しぶりである。

研究生は絶大な信頼を寄せて、僕のアドバイスを聞こうとする。

そのプレッシャーに、ひるむ。

お医者さんならば、どんな病気も直してくれる。

床屋さんならば、必ずかっこよく髪型を仕上げてくれる。

われわれがプロに求める仕事とは「できてあたりまえ」「絶大な信頼」が前提となっている。

サービスを受けとる側が求めている仕事の質は、受けとる立場からするとごく自然で当たり前なのだけど、それを与える側に回ってみると、とんでもなくハードルが高いものである。

西川美和監督の「ディアドクター」という映画があるが、なんちゃって医師だった人間に絶大な信頼が集まっていき、押し潰されてしまうというような映画だった。

監督自身が、私は本物の監督と言えるのか、という不安から産み出された作品とのことだが、これは誰にでもあるのではないか。

ぼくらは、いつ「プロになった」と自覚できるのだろう。

サラリーマンは気楽な家業と来たもんだ。と植木等が歌っていた。

サラリーマンはまだこれからという新入社員にも、しっかり給与が支払われる。まだ仕事をしていません。というこれからの人にも、将来の仕事への期待という価値に、給与が先払いされるのである。あれから長い時間を過ごしてきた自分は、お給料を頂くにふさわしい人間になれているのだろうか。

話は大きくそれたが、石膏デッサンである。

果たして自分は、誰かの石膏デッサンにつべこべ言うほどの立場になれているのだろうか。

久しくさわってなかった木炭を手にして臨むビーナスに手が震えた。

すっかりなまっているな、と感じた。だけど、同時に、「自分は今、描いている」という確かで不思議な充実感もあった。

頭の中の見えないものをキャンバスに落とすという長くに亘る苦しみからいったん離れ、目の前にある石膏像をただ、素直に、見つめ、正しく、狂いもなく、紙の上に投射するという、実にシンプルな課題を、「なんて楽ちんなのだ」と思いながら「なんて難しいのだ」とも思う、この面白さ。

人生、スランプとか、なんとか、いろいろあるけれど、迷ったらやっぱりこれだ。

原点に戻ってみる。これが確かなんだな、ということを思い出した。□